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天皇の譲位

天皇の譲位

徳川慶喜が「大政奉還」を奏上し、その後も内乱を避けようと妥協を重ねたにもかかわらず、薩長藩は攘夷討幕派浪人などを使い何とか徳川幕府勢力と戦端を開きたいと行動した。だから、私見では、明治維新の功労者は徳川慶喜であり、薩長藩ではない。暗殺された坂本竜馬は、徳川慶喜の「大政奉還」によりもはや内乱は起こらないと確信して亡くなった。ところがさにあらず、明治新政府=薩長藩の「戦の遺伝子」「戊辰戦争」を勃発させた。

明治新政府の主要な法典、「大日本帝国憲法」「皇室典範」には欠陥がある。
「大日本帝国憲法」は統治権、統帥権に関しザル(笊)であった。明治維新に活躍した「元老」達が生きている間は「明治憲法」は一応機能した。しかし、「元老」達がいなくなる代になると「大日本帝国憲法」の基の統治権、統帥権とも破たんし、首相には陸軍大臣、海軍大臣を抑える統治権がなく、統帥権も天皇の名のもとに、事実上、陸軍参謀本部、海軍軍令部にあった。はっきり言って「伊藤博文」には将来まで見通す「憲法」という「法典」をつくる能力がなかったということになる。 

「皇室典範」も同様である。「皇室典範」に天皇の譲位を盛り込むことが議題に上ったが、日本の歴史と伝統を無視し、それを拒否したのは「伊藤博文」(長州藩)であったという。天皇の「譲位」(「生前退位」)は歴史上当たり前に行われた。ただし、権力争いなど色々な弊害があったのも事実であるし、退位後どのように待遇するかなど問題は多いが、それは克服しなければならない問題であった。皇室典範に関してここでは「譲位」以外の問題点には振れない、。 


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 被災者を見舞われる天皇・皇后両陛下  被災者と同じ目線で慈愛に満ちておられる

天皇、天皇家の視点から
明治維新後を天皇家の立場から見ると、私には明治新政府に利用された一面が見えてくる。

すなわち、上述したように「権威」という、いうなれば「象徴」的な立場を明治新政府の「錦の御旗」として内乱「戊辰戦争」の勝利の為に利用された。

後に「統帥権干犯」として、明治憲法(大日本帝国憲法)第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、第12条「天皇ハ陸海軍ノ編成オヨビ常備兵額ヲ定ム」(天皇の統帥権および編成大権)、の欠陥を政争の具にされた。騒ぎ出したのが野党・政友会の犬養毅や鳩山一郎(鳩山由紀夫・邦夫兄弟の祖父)であり、反論したのは浜口雄幸首相であった。「責任内閣制度なのだから実際上は内閣が軍縮条約を結んでもかまわない。これが統帥権干犯ならば、外交を外務大臣がやるのは外交権干犯なのか?」という答弁をして鳩山一郎や政友会を黙らせる。しかし、これが後に上述した「統治権、統帥権とも破綻」する緒になり、軍部台頭のきっかけとなった。


天皇の名のもとに「権威」と「権力」がもてあそばれ、天皇家のみならず日本国民に不幸を招くことになった。これは「日本帝国憲法」と「皇室典範」の欠陥によるものである。ここで「権力」とは軍部が天皇の名をかたり、悪用した権力である。すなわち、明治憲法は、天皇家を傀儡(かいらい、あやつり人形)というより、「虎の威を借る狐」の「虎」にしたような意味がある。もちろん「狐」は明治新政府と後(昭和時代)の軍部である。

このような観点から今上陛下が「象徴」天皇を繰り返し語られた意味が分かるような気がする。すなわち「元首」という言葉は「狐」が出てくると「虎」にされ利用されかねない。現日本国憲法の「象徴」のままが良いと繰り返し語ったようにも思われる。天皇に政治的発言は許されないが、私には「お言葉」にその意図をかすかに感ずることが出来る。「皇室典範」は「譲位」に関しては恒久的なものとして改訂されなくてはならない。明治新政府の「皇室典範」は「明治憲法」同様いい加減なものであったのだから



天皇制と明治維新 保守主義 その1

aa139912[1] 徳川慶喜の大政奉還にかける竜馬の思い
4464b925[1] 徳川慶喜に対する竜馬のリスペクト(敬意)
大政奉還の後、坂本竜馬は暗殺され、日本は戦(いくさ)に突入する。誰が竜馬を邪魔にし、戦に突入させたのか。「大政奉還」後の経過に明治新政府の「戦の遺伝子」を感ずる。


天皇制と明治維新 保守主義 その1
明治維新は、薩長勢力が天皇家の権威を錦の御旗として担ぎ、権力闘争に利用し、勝利した革命である。

第121代孝明天皇(こうめいてんのう)は、幕末維新のまっただ中を生きて慶応2年(1866年)36歳でお亡くなりになったが、その死をめぐっては諸説あり定かではないが暗殺説がある。孝明天皇は迫り来る外国の脅威に対して強い怖れと拒絶反応を示し、終始攘夷を主張した。 薩摩長州等の倒幕派とは組みせず、あくまでも幕府による攘夷を望んだため、薩摩長州の倒幕派からは危険視されていた。異母妹の和宮(かずのみや)を徳川家に降嫁させたのも、あくまでも徳川家を中心に国体の維持を図ろうとするものであった。

第122代明治天皇(めいじてんのう)は、孝明天皇が崩御され、慶応3年(1867年2月13日)満14歳で皇位に即く。翌慶応4年(1868年)に元服し、即位したことを内外に宣下する。

幕府と討幕派(薩摩長州藩や一部の公卿)は、それぞれ朝廷への工作を強め、薩長両藩に討幕の密勅が下されそうになったので、征夷大将軍・徳川慶喜が慶応3年10月14日(1867年11月9日)大政奉還を奏上し、明治天皇は奏上を勅許した。江戸幕府は存在したので討幕派は引き続き12月9日(1868年1月3日)王政復古の大号令を発し、新政府樹立を宣言した。

徳川慶喜(在大坂)は幕府勢力の反発を抑えたが、江戸薩摩藩邸は攘夷討幕派浪人を匿い庄内藩屯所襲撃など度重なる騒乱行動を起こしアジった為、ついに12月25日小栗上野介の提言、老中稲葉正邦(江戸留守居役)の命により庄内藩による江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きる。戦わざるを得ない状況に陥った幕府勢力は慶応4年(1868年)正月、新政府軍と「鳥羽・伏見の戦い」を戦ったが敗北した。これは、翌明治2年(1869年)にかけて戦われた内戦=戊辰戦争の緒戦となった。
 

「江戸城無血開城」は戊辰戦争の舞台が奥羽越(東北諸藩)に移る途中の江戸におけるできごとである。私が注目するのは徳川慶喜の行動である。「大政奉還」、「王政復古の大号令」を通じ徳川慶喜には戦意がなかった。やむを得ず戦った「鳥羽伏見の戦い」の後も慶喜は恭順の意を示した。だから、江戸城開城は徳川慶喜の意向である。また、和宮(かずのみや)も天皇家とのつながりで江戸を戦火から守るために新政府と交渉した。イギリスも江戸攻撃に反対した。旧江戸幕府と戦いたいのは薩摩長州藩であったが、これらの背景があったからこそ、勝海舟と西郷隆盛の無血開城交渉は成立した。

奥羽越における会津藩、庄内藩との戦いは、奥羽越列藩同盟が度々「会庄寛宥嘆願書」を提出したにも拘わらず継続された。以上の経過は、明治新政府「戦いたい遺伝子」を持つ政権であったのではないかという疑問を持つ。また、天皇家を権力闘争に利用したが「朝敵」は新政府の意向でつくられたものであり、会津藩にも庄内藩にも日本中どこにも「朝敵」の意思を持つ藩は微塵もなかった。


「明治憲法」は後世「軍部の暴走」を許した。同時に制定された「皇室典範」に天皇の譲位を盛り込むことが議題に上ったが、日本の歴史と伝統を無視し、断固それを拒否したのは「伊藤博文」(長州藩)であったという。上述したように明治維新時の薩長藩は天皇家の権威を利用し、権力を得た。過去の反省すべは反省し、直すべきは直すこと、すなわち、フィードバックして少しずつ(革命、革新的でなく)より良い方向にもって行くのが保守主義というものである。  つづく

※カテゴリ:右欄のカテゴリ 政治・経済欄の保守主義をクリックすると表示されます 

天皇の生前退位

天皇の生前退位

天皇陛下 お気持ち表明 (平成28年8月8日午後3時)  抜粋
本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。

即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。

そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていく ことが、難しくなるのではないかと案じています。


天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。
 
国民の理解を得られることを、切に願っています。


      img_1[1] 
                 天皇皇后両陛下 東日本大震災の被災地にて祈る


<所見>
ある憲法学者(横田耕一)は天皇の発意で物事が動くというのは望ましくないと批判している。主権者である我々国民 が考えることである。正論である。率直に言って、我々国民が気が付かず、思いもよらなかったことを、天皇のお言葉で気が付いた。これを機会に「天皇の生前退位」について国民が考えることにすればよい。

日本の歴史を考えた場合、皇室典範 は非常に狭義になっている。例えば、皇統を継ぐのは男系男性天皇だけであるが、歴史上女性天皇は多い。ただし、すべて男系の女性天皇である。また、問題の「生前退位」の例も歴史上は多い。などが歴史的事実であり、皇室典範とは異なる 


<私見>
皇室典範の見直しは煩雑で難しい。「生前退位」の部分だけ改正すればよい。今上天皇(現天皇)だけの特別立法にするのも良いと思う。

お気持ち表明では「象徴」という言葉を繰り返し使われている。明治天皇は日本国の「元首」であった。昭和天皇は「元首」から戦後「象徴」になった。今上天皇は最初から「象徴」であり、「元首」であったことのない天皇である。私たちが聞きなれ使い慣れた「象徴」という表現は現在と将来の天皇に相応しい表現だとおもう。


古代において天皇は権力者であった。平安時代、桓武天皇は平安京遷都、奥羽蝦夷征伐などで権力をふるったが、間もなく摂政、関白などが権力の表に出てくる時代になり、さらに武家が権力を握る時代に変遷した。権力志向の後醍醐天皇が出現したりしたが、明治維新まで、長期に渡り天皇は権威ではあったが権力の座になかった。明治維新では薩長が権力争いに勝つために天皇の権威を利用し、決して天皇の逆賊ではなかった会津藩などを相手に必要もない「戊辰戦争」という内乱を起こした。天皇の権威はやがて軍部から政治権力として利用されるようになり、それが軍部の暴走を招く原因になったのである。

だから、忌わしい歴史の記憶がある 「元首」 より 「象徴」 が天皇に相応しい。
「お気持ち表明」を通じて感じることは、今上は、明治維新時の天皇の「元首」への担ぎ出しに批判的で、それ故「象徴天皇」にこだわりがあるような気がしてならない。


天武天皇から神武天皇へ遡る

Emperor_Tenmu[1]  天武天皇

天武天皇から神武天皇へ遡る  

卑弥呼と古代天皇(2015年12月1日)と題し
神武天皇より前の時代の卑弥呼より神武天皇の即位年を推定した。
それによると、神武天皇の即位は西暦288〜289年、現在(2015年)から1726〜1727年前であった。

逆に日本書紀、古事記の編纂事業を始めた天武天皇の時代から遡る計算をすると
天武天皇:第40代天皇、在位は673年3月20日から686年10月1日。
天武天皇が即位した、673年より10.2×38=388年前に神武天皇即位 → 673-388=西暦285年
(数ヶ月在位とされる弘文天皇を計算せず39代として計算。係数10.2年は「古代天皇と卑弥呼」(2015年11月25日)参照

卑弥呼より計算:西暦288〜289年、天武天皇より計算:西暦285年、二つは非常に良い一致を示すから神武天皇の就位期間を3世紀後半から4世紀初めとするのは妥当と認められる。


<付録>
今年(西暦2016年)は神武天皇二千六百年式年祭、すなわち初代の神武天皇がなくなられたと伝えられる年から2600年目にあたるという。
紀元二千六百年は昭和15年(西暦1940年)であるが、神武天皇が即位されてから2600年ということ。神武天皇は76年間在位したことになる。因みに前にも述べたが神武天皇は137歳まで生きたと伝えられる。

歴史学者「坂本太郎」(東大教授)は、古代天皇の年齢が不自然なのは、作りごとをせず、架空の天皇を増やさなかったためだと言っている。この発言は神武天皇治世の時代を3世記末から4世紀初めとする本説を支持する。

神武紀元は、本稿で述べた神武即位年より940〜950年遡る。


日本現代史の大局的一視点 追補

c4c9302e7275be7e80f915052f46b4a29c8be923[1]  日露戦争
  欧米の代理戦争の一面があった。 多額の外債が可能だったのはその証左?


日本現代史の大局的一視点 追補
 前項を前提に追補する。

明治以来、日本は一貫して大陸(清国、ロシア、ソ連)からの脅威、共産主義化、社会主義化を脅威としてきた。しかし、肝心なときに、その初心・基本戦略を忘れる愚を犯してきたのではないか?


日清戦争:
外務大臣陸奥宗光 「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争はその意全く 朝鮮をして独立国たらしめんにあり」。 日本は朝鮮の独立を清に認めさせ、清から領土(遼東半島・台湾・澎湖列島)と多額の賠償金などを得ることになった。三国(ロシア・フランス・ドイツ)干渉で遼東半島返還を受け入れるも、賠償金で軍備を拡張した。


三国干渉があったとはいえ、国家の出発点として調子に乗り過ぎる要因として作用したのではないだろうか?


日露戦争:対アメリカ
桂・ハリマン協定;アメリカはポーツマス条約の仲介により、満洲に進出することを企て、ロシアから日本が譲渡された東清鉄道支線を日米合弁で経営する予定を桂内閣と成立させた(1905年10月12日)。アメリカの鉄道王ハリマンを参画させるというものであった。この協定はポーツマスから帰った小村外相の反対により破棄された。

① 日本へ外債や講和で協力したアメリカ はその後も中国進出を意図したが、日英露三国により中国権益から締め出されてしまった。歴史的に俯瞰すれば、ロシアの南下政策を恐れていた初心を貫くには、アメリカ・ハリマンを参画させることが最良の戦略であった。それにより、その後の満州事変も、日中戦争も、ひいては、太平洋戦争もなかったであろう。

桂太郎首相や元老の方が小村寿太郎外相より戦略眼があったということになる。
すなわち、東大出の官僚より、明治維新をくぐり抜けた元老の方が広い視野を持っていた。



満州事変
② リットン調査団 のリットン報告書は日本に不利な面ばかりでなく日本の立場も考慮されていたものであった。これを受け入れ、国際連盟脱退はさけるべきであった。
満州国建国 後、日中戦争に突入したのは戦略上の大きな間違いであった。


<コメント>
①②③は戦略的分岐点であったが、全ての選択を間違えた。

①を選択すればアメリカとの太平洋戦争はなかったであろう。
  満州事変もなかっただろうから最も重要な選択肢である。
②で日本は国際的に孤立した。
③を選択しなければ、第二次世界大戦の泥沼に入ることを避けられた可能性がある。
  石原莞爾はやはり戦略的天才であった。

現在、大陸共産主義からの脅威はこれまで以上に大きくなっている。
①②③の分岐点全てで誤った選択をしたからである。



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 辻 幸弥 (つじこうや)

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