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天皇退位と譲位 女性宮家創設

天皇退位と譲位
政府の有識者会議の最終報告が4月21日に提出され、天皇退位を実現する法案を立案し、国会に提出される段階になった。

天皇の意思を重んじ、天皇が退位され、皇太子に譲位されることを多数の日本国民と同様に私は望んでいる。
皇室典範は明治維新のどさくさに紛れて天皇制を必ずしも重んじなかった(悪用した)政治勢力のもとで成立したものであり、昭和天皇までの124代のうち58代が生前退位・譲位であった事実を私は重んじたい。すなわち、退位・譲位は議論の余地なく自然なことである。

現状
現在の皇位継承順位は、①皇太子殿下(57歳) ②秋篠宮殿下(51歳) ③悠仁親王殿下(10歳) ④常陸宮殿下(81歳)で、皇位継承者はこの4人の他にいない。皇位をつつがなく継承していただくには大変心配な状況にあることは国民共通の認識である。


 DSCN0750.jpg
    ①②③④は皇位継承順位  ( )内は年齢    BSフジプライムニュースより

女性宮家創設  民進党
民進党の野田義彦幹事長は天皇制・天皇退位について強い主張を持っている。
その一つに「女性宮家創設」があることは報じられてきた。しかし、その明確な内容は知らなかった。
津村啓介 民進党皇位検討委員会事務次長 がBSフジプライムニュース(3月22日)で語っていた内容は以下の通り。

津村啓介議員によると
民進党は「女性宮家の創設」を方針(党是)にしている。
その中には「女性天皇」「女系天皇」を認めることも含めている。


そこで「男系天皇」「女性天皇」「女系天皇」について明確にしておかなければならない。
現在の皇室典範では①「男系」の「男性天皇」だけが認められている。
歴史上8人10代の②「男系」の「女性天皇」がおられた。「男系天皇の血筋である皇后の即位」、または「男系天皇の血筋で生涯独身を通された女性天皇」、の何れかであった。

「女系天皇」は、内親王(皇女・皇孫たる女子)と一般男子の間の子供が即位する「天皇」(男女)であり、歴史上例がない。例えば一般男子が「井伊家」※であれば伝統的(一般的)解釈では「井伊家」の血統であり、井伊家が「天皇家」になり代わったことになる。これは、井伊家が天皇家を簒奪したと解釈し得る。だから、帝位簒奪という政変に繋がる問題を含んでいる。法律を変えればよいという問題ではなく、古来の日本民族の伝統・心情の問題である。
※大河ドラマと「いろは」の「い」より、例を「井伊家」にしたに過ぎない。

皇室典範改正が前提となるが、
③「女性宮家」「女性天皇」は一代限りであればよいと考える。男系だからである。
すなわち、愛子内親王、真子内親王、佳子内親王は男系であるから、「女性宮家」のみならず「女性天皇」の資格もあるように「皇室典範」を改正するのは日本民族の歴史、伝統、心情に合致していると考える。(但し、「天皇」は現皇室典範より「男子である」「悠仁親王」が優先されることになるだろう。) 
※「女性宮家」「女性天皇」の二代目は、上述「井伊家」の例より、「女系」になる。

※この民進党の主張には有識者会議の御厨貴氏の影響があると思われる。御厨氏は天皇家存続に関し「帝位簒奪」という危険な考えを持っていると思う。ただし、「女性宮家創設」は有識者会議の議論の範囲ではない。



天皇の譲位  皇室典範

天皇の譲位  皇室典範
天皇家の立場にから見ると、薩長閥明治新政府に悪用された一面が私には見える。
それは、日本人として許される範囲を逸脱するものであり、日本民族、天皇家ともに被害者である。
それが戦争の遺伝子となり、日本は明治から昭和20年(1945年)の敗戦まで戦争ばかりやっていた。

人はよく、過去を振り返るより、未来志向でなければならないというが、正しい歴史観を持つことなしに未来は見えない。
歴史は勝者の論理でつくられるというが、「明治維新」という歴史観は山縣有朋など薩長藩閥明治政府が作ったものである。

ことわっておくが私は保守主義の支持者であり、リベラリストではなく共産党や左翼を否定するとともにいわゆる右翼も否定する。
支持政党は一応自民党である。

   thDSNTFDXF.jpg 孝明天皇 攘夷思想でなかったら良かった

司馬史観
司馬遼太郎は、明治維新、日清、日露の戦争を小説の題材にし、自身が参戦した昭和の戦争を卑下し、小説に書けないとしている。
過去の政争、戦いを叙事詩として書き、実体験は叙事詩にならないというのであれば私は承知する。
そうではなく、昭和、あるいはその20年程度前からの日本は情けない国になり下がったというのである。
日本人に広く受け入れられている、この司馬史観を私は否定する。
司馬氏の著作は歴史書ではない。「叙事詩」あるいは「小説」として読むべきである。
戦争の遺伝子はあくまで明治維新に起源があり、明治維新から受け継がれたものである。



薩長藩閥明治政府と天皇の関わり
長州は敢えて京都御所付近を争いの場とし、御所に大砲をぶっ放し、天皇の幽閉、動座(誘拐)を企てるなど手段を選ばず物欲しげに天皇の錦の御旗を強奪しようとし、終に目的を達成した。長州こそ朝敵であった。

簡略に例を述べると
池田屋事件(事変);1864年7月8日(元治元年6月5日):新選組が「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」という情報を得た(Wikipedia)。御所は塀を廻らしただけの平和の館で城郭ではないが、それに乗じようとする卑怯な政争である。それを未然に防ぐため新選組による池田屋襲撃事件が起こった。 

孝明天皇暗殺説:孝明天王は攘夷思想の持ちぬしであったが、公武合体派で和宮を降嫁させ、あくまで江戸幕府を支持していたことは、薩長にとって不都合であった。病死、暗殺説があり、一応事実は不明ではあるとされる。皇位を継承した明治天皇はまだ14歳であった。

   Secret_imperial_order_of_overthrow_the_Tokugawa_Shogunate[1]  討幕の密勅

討幕の密勅;江戸時代最末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、薩摩藩と長州藩に秘密裡に下された、徳川慶喜討伐の詔書である。従来より偽勅説が唱えられてきた。この詔書はもともと模擬文書であり、必要な場合は「このような勅命を出すことが可能だ」という「サンプルのようなもの」らしいというのが説得力ある説という(Wikipedia)。要するにこのようなものが欲しいというサンプルを作ったに過ぎなかった。これが戊辰戦争の錦の御旗の正体である。幕府側のみならず、日本に朝敵はいなかった。しかし、戊辰戦争を戦った幕府側は薩長の卑怯なまだ15歳の明治天皇の偽勅により朝敵とされた。むしろ朝敵は薩長であった。


靖国神社:は長州の護国神社に過ぎない。朝敵とされた奥羽越列藩同盟や西南戦争などの戦死者を祀っていない。日本にはいなかったでっち上げられた朝敵を祀らず、朝廷をしゃぶり尽くした朝敵長州の施設といえる。国のために戦死した英霊を祀るに相応しいところではない。


「主権回復の日」式典  最近の出来事
2013年4月28日に開かれた日本政府主催の「主権回復の日」式典で、会場内にいた安倍晋三首相を含む人々が「天皇陛下万歳」と万歳三唱をした。このことに対して日本国内からも批判の声が上がっている。中国・京華時報が伝えた。
安倍晋三首相の取り巻きのごますりか? 上述を背景に私も批判する。 日中韓からの批判!!


結論
今、長州自慢の安倍晋三首相のもとで「皇室典範」を改訂すべきではない。
御厨貴氏は「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の座長代理を務めているが、この方も時代に乗り遅れた知性で相応しくない。

「歴史は権力がつくる」は常識であるが、最近の日本の歴史「明治維新」が権力にまみれていると日本人は気づいて欲しい。
今、原田伊織氏の著書「明治維新という過ち」などを端緒として、権力がつくった明治維新という歴史を見直すべき「とき」である。

「皇室」は日本民族にとって大切である。
伊藤博文の皇室典範を改めるのは、「明治維新」の歴史を見直したあとが良い。



『明治維新という過ち』 という著作

『明治維新という過ち』
という本を読んだ。著者の「原田伊織」氏と私には共通点がある。

致道館_5_-_コピー[1] 致道館 鶴岡市

私は徳川四天王の譜代大名左衛門尉酒井家のお膝元庄内出身で庄内藩の伝統を多少なりとも受け継ぐ鶴岡の名門校といわれる高校を卒業した。在学中、同窓会長は酒井家当主であった。庄内藩には致道館という藩校がありその名を冠していなかったが、同じ山形県内の藩校を冠した米澤興譲館高校を羨ましいと感じたこともある。

著者「原田」氏は京都生まれだが、彦根市で育ち彦根藩の藩校を冠する弘道館高校を卒業したという。彦根(佐和山)藩は言うまでもなく同じく徳川四天王譜代大名である井伊家の版図であった。(今、NHK大河ドラマの舞台である。楽しみにしている。)


私は徳川家にゆかりが深い藩出身であるからこそ、明治維新と言われる歴史を詳細に検討し、薩長藩閥権力による明治維新の歴史は捏造されていると結論している。原田氏は小説家であるが発端は似ているように思われる。

私は戊辰戦争勃発を糸口として経緯を大局的に調べ、薩長藩閥政府は「戦(いくさ)の遺伝子」を持ち、明治以来の征韓論、日清戦争、日露戦争、満州事変、日華事変、太平洋戦争はその遺伝子によるものだと結論している。そのキーワードは、赤報隊、世良修蔵、二本松・会津戦争の残忍さ、明治憲法、皇室典範、廃仏毀釈などである。


私は薩長藩閥明治政府を「戦の遺伝子」を持つと表現しているが、原田氏は吉田松陰はじめ長州の勤皇攘夷の志士たちを「テロ集団」と呼んでいる。

司馬遼太郎の昭和に入り日本は情けなくなったという歴史観間違いで、「戦の遺伝子」は明治憲法、皇室典範そのものに内在し、それは薩長藩閥明治新政府が本源的に持つ遺伝子であり、明治以来のあらゆる戦争はそれに原因があるというのが私が到達した結論である。


※右リンク欄の【戊辰戦争】最強軍団【庄内藩】をクリックして庄内藩の説明動画を見てください。

天皇の譲位

天皇の譲位

徳川慶喜が「大政奉還」を奏上し、その後も内乱を避けようと妥協を重ねたにもかかわらず、薩長藩は攘夷討幕派浪人などを使い何とか徳川幕府勢力と戦端を開きたいと行動した。だから、私見では、明治維新の功労者は徳川慶喜であり、薩長藩ではない。暗殺された坂本竜馬は、徳川慶喜の「大政奉還」によりもはや内乱は起こらないと確信して亡くなった。ところがさにあらず、明治新政府=薩長藩の「戦の遺伝子」「戊辰戦争」を勃発させた。

明治新政府の主要な法典、「大日本帝国憲法」「皇室典範」には欠陥がある。
「大日本帝国憲法」は統治権、統帥権に関しザル(笊)であった。明治維新に活躍した「元老」達が生きている間は「明治憲法」は一応機能した。しかし、「元老」達がいなくなる代になると「大日本帝国憲法」の基の統治権、統帥権とも破たんし、首相には陸軍大臣、海軍大臣を抑える統治権がなく、統帥権も天皇の名のもとに、事実上、陸軍参謀本部、海軍軍令部にあった。はっきり言って「伊藤博文」には将来まで見通す「憲法」という「法典」をつくる能力がなかったということになる。 

「皇室典範」も同様である。「皇室典範」に天皇の譲位を盛り込むことが議題に上ったが、日本の歴史と伝統を無視し、それを拒否したのは「伊藤博文」(長州藩)であったという。天皇の「譲位」(「生前退位」)は歴史上当たり前に行われた。ただし、権力争いなど色々な弊害があったのも事実であるし、退位後どのように待遇するかなど問題は多いが、それは克服しなければならない問題であった。皇室典範に関してここでは「譲位」以外の問題点には振れない、。 


3076[1]
 被災者を見舞われる天皇・皇后両陛下  被災者と同じ目線で慈愛に満ちておられる

天皇、天皇家の視点から
明治維新後を天皇家の立場から見ると、私には明治新政府に利用された一面が見えてくる。

すなわち、上述したように「権威」という、いうなれば「象徴」的な立場を明治新政府の「錦の御旗」として内乱「戊辰戦争」の勝利の為に利用された。

後に「統帥権干犯」として、明治憲法(大日本帝国憲法)第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、第12条「天皇ハ陸海軍ノ編成オヨビ常備兵額ヲ定ム」(天皇の統帥権および編成大権)、の欠陥を政争の具にされた。騒ぎ出したのが野党・政友会の犬養毅や鳩山一郎(鳩山由紀夫・邦夫兄弟の祖父)であり、反論したのは浜口雄幸首相であった。「責任内閣制度なのだから実際上は内閣が軍縮条約を結んでもかまわない。これが統帥権干犯ならば、外交を外務大臣がやるのは外交権干犯なのか?」という答弁をして鳩山一郎や政友会を黙らせる。しかし、これが後に上述した「統治権、統帥権とも破綻」する緒になり、軍部台頭のきっかけとなった。


天皇の名のもとに「権威」と「権力」がもてあそばれ、天皇家のみならず日本国民に不幸を招くことになった。これは「日本帝国憲法」と「皇室典範」の欠陥によるものである。ここで「権力」とは軍部が天皇の名をかたり、悪用した権力である。すなわち、明治憲法は、天皇家を傀儡(かいらい、あやつり人形)というより、「虎の威を借る狐」の「虎」にしたような意味がある。もちろん「狐」は明治新政府と後(昭和時代)の軍部である。

このような観点から今上陛下が「象徴」天皇を繰り返し語られた意味が分かるような気がする。すなわち「元首」という言葉は「狐」が出てくると「虎」にされ利用されかねない。現日本国憲法の「象徴」のままが良いと繰り返し語ったようにも思われる。天皇に政治的発言は許されないが、私には「お言葉」にその意図をかすかに感ずることが出来る。「皇室典範」は「譲位」に関しては恒久的なものとして改訂されなくてはならない。明治新政府の「皇室典範」は「明治憲法」同様いい加減なものであったのだから



天皇制と明治維新 保守主義 その1

aa139912[1] 徳川慶喜の大政奉還にかける竜馬の思い
4464b925[1] 徳川慶喜に対する竜馬のリスペクト(敬意)
大政奉還の後、坂本竜馬は暗殺され、日本は戦(いくさ)に突入する。誰が竜馬を邪魔にし、戦に突入させたのか。「大政奉還」後の経過に明治新政府の「戦の遺伝子」を感ずる。


天皇制と明治維新 保守主義 その1
明治維新は、薩長勢力が天皇家の権威を錦の御旗として担ぎ、権力闘争に利用し、勝利した革命である。

第121代孝明天皇(こうめいてんのう)は、幕末維新のまっただ中を生きて慶応2年(1866年)36歳でお亡くなりになったが、その死をめぐっては諸説あり定かではないが暗殺説がある。孝明天皇は迫り来る外国の脅威に対して強い怖れと拒絶反応を示し、終始攘夷を主張した。 薩摩長州等の倒幕派とは組みせず、あくまでも幕府による攘夷を望んだため、薩摩長州の倒幕派からは危険視されていた。異母妹の和宮(かずのみや)を徳川家に降嫁させたのも、あくまでも徳川家を中心に国体の維持を図ろうとするものであった。

第122代明治天皇(めいじてんのう)は、孝明天皇が崩御され、慶応3年(1867年2月13日)満14歳で皇位に即く。翌慶応4年(1868年)に元服し、即位したことを内外に宣下する。

幕府と討幕派(薩摩長州藩や一部の公卿)は、それぞれ朝廷への工作を強め、薩長両藩に討幕の密勅が下されそうになったので、征夷大将軍・徳川慶喜が慶応3年10月14日(1867年11月9日)大政奉還を奏上し、明治天皇は奏上を勅許した。江戸幕府は存在したので討幕派は引き続き12月9日(1868年1月3日)王政復古の大号令を発し、新政府樹立を宣言した。

徳川慶喜(在大坂)は幕府勢力の反発を抑えたが、江戸薩摩藩邸は攘夷討幕派浪人を匿い庄内藩屯所襲撃など度重なる騒乱行動を起こしアジった為、ついに12月25日小栗上野介の提言、老中稲葉正邦(江戸留守居役)の命により庄内藩による江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きる。戦わざるを得ない状況に陥った幕府勢力は慶応4年(1868年)正月、新政府軍と「鳥羽・伏見の戦い」を戦ったが敗北した。これは、翌明治2年(1869年)にかけて戦われた内戦=戊辰戦争の緒戦となった。
 

「江戸城無血開城」は戊辰戦争の舞台が奥羽越(東北諸藩)に移る途中の江戸におけるできごとである。私が注目するのは徳川慶喜の行動である。「大政奉還」、「王政復古の大号令」を通じ徳川慶喜には戦意がなかった。やむを得ず戦った「鳥羽伏見の戦い」の後も慶喜は恭順の意を示した。だから、江戸城開城は徳川慶喜の意向である。また、和宮(かずのみや)も天皇家とのつながりで江戸を戦火から守るために新政府と交渉した。イギリスも江戸攻撃に反対した。旧江戸幕府と戦いたいのは薩摩長州藩であったが、これらの背景があったからこそ、勝海舟と西郷隆盛の無血開城交渉は成立した。

奥羽越における会津藩、庄内藩との戦いは、奥羽越列藩同盟が度々「会庄寛宥嘆願書」を提出したにも拘わらず継続された。以上の経過は、明治新政府「戦いたい遺伝子」を持つ政権であったのではないかという疑問を持つ。また、天皇家を権力闘争に利用したが「朝敵」は新政府の意向でつくられたものであり、会津藩にも庄内藩にも日本中どこにも「朝敵」の意思を持つ藩は微塵もなかった。


「明治憲法」は後世「軍部の暴走」を許した。同時に制定された「皇室典範」に天皇の譲位を盛り込むことが議題に上ったが、日本の歴史と伝統を無視し、断固それを拒否したのは「伊藤博文」(長州藩)であったという。上述したように明治維新時の薩長藩は天皇家の権威を利用し、権力を得た。過去の反省すべは反省し、直すべきは直すこと、すなわち、フィードバックして少しずつ(革命、革新的でなく)より良い方向にもって行くのが保守主義というものである。  つづく

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 辻 幸弥 (つじこうや)

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