保科正之

江戸城天守台
 江戸城天守台                             保科正之の時代、つわもの(兵)による武断政治
                                      から武士道による文治政治に代わった。 天守が
                                      ないからこそその象徴となり得るのだ。

保科正之   八重の桜 2
 
松平会津藩の藩祖保科正之は、後世に計り知れない遺産を遺した偉大な政治家である。徳川三代将軍家光の閣僚として、四代家綱の後見人として活躍した。家綱のためにひたすら名前を隠し、明治維新では会津藩が賊軍であったため現在余り知られていないが、我々が最も知るべき政治家である。彼を理解せずして“八重の桜”はもちろんのこと“武士道”も“日本の現在”も理解できない。

秋葉原から神田岩本町へ歩いて行くと、道の両側に商店会が露店を開いていて賑やかだった。そこで署名を求められた。江戸城天守を再建したいので署名を集めているのだという。

賛成しかねたからその理由を尋ねた。そして歴史的に見て再建すべきではないのだと縷々説明した。理屈っぽい嫌な奴に署名を求めたことになる。私は署名しなかった。


江戸城天守は4代将軍家綱の時代に明歴の大火(1657年、いわゆる振袖火事)で焼け落ちたが、保科正之(副将軍格、会津藩主、三代家光の異母弟)の決断により再建されなかった。民政を重んじて復興を優先し、隅田川に初めて両国橋を架けるなどしたが、「天守はただ遠くを見渡すための物見櫓にすぎない」と再建しなかった。

そして、江戸時代200年余の間再建されることがなかった天守である。
再建は歴史に反する行為であるとともに、実は“武士道”にも“日本の精神史”にも反するのである。


天守とは? 江戸城の天守は、慶長11年(1606)家康、元和8年(1622)秀忠、寛永15年(1638)家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴とされた。

保科正之が四代家綱の後見人として幕府の実権を握っていたが、江戸幕府の政治を武断政治から文治政治へ
180度転換したのが保科正之であった。武士の政治が始まって以来“つわもの(兵)”による“武断政治”であったが、“文治政治”により江戸時代を安全・安心・平和の世に導き、江戸を世界に例のない百万都市に発展させた知られざる名君が保科正之であった。

文治政治により、大名家の改易(お家断絶)がなくなり、“一揆農民全村なで斬り”などもなくなった。
また、人間が生きる規範、すなわちお手本になるのが武士とされ、武士道はここに端を発する。

天守台に天守が存在しないことは、“文治政治” “武士道”を象徴する見えざる“金字塔”なのである。「再建などもってのほかのもって菊」

保科正之は二代将軍秀忠の“ご落胤”だが、正之を養子にした高遠藩保科正光(3万石)に恩義を感じていた。
「松平」姓を許されていたが、本人の代では終ぞ松平を名のることはせず「保科」で通した。
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