天皇制と明治維新 保守主義 その1

aa139912[1] 徳川慶喜の大政奉還にかける竜馬の思い
4464b925[1] 徳川慶喜に対する竜馬のリスペクト(敬意)
大政奉還の後、坂本竜馬は暗殺され、日本は戦(いくさ)に突入する。誰が竜馬を邪魔にし、戦に突入させたのか。「大政奉還」後の経過に明治新政府の「戦の遺伝子」を感ずる。


天皇制と明治維新 保守主義 その1
明治維新は、薩長勢力が天皇家の権威を錦の御旗として担ぎ、権力闘争に利用し、勝利した革命である。

第121代孝明天皇(こうめいてんのう)は、幕末維新のまっただ中を生きて慶応2年(1866年)36歳でお亡くなりになったが、その死をめぐっては諸説あり定かではないが暗殺説がある。孝明天皇は迫り来る外国の脅威に対して強い怖れと拒絶反応を示し、終始攘夷を主張した。 薩摩長州等の倒幕派とは組みせず、あくまでも幕府による攘夷を望んだため、薩摩長州の倒幕派からは危険視されていた。異母妹の和宮(かずのみや)を徳川家に降嫁させたのも、あくまでも徳川家を中心に国体の維持を図ろうとするものであった。

第122代明治天皇(めいじてんのう)は、孝明天皇が崩御され、慶応3年(1867年2月13日)満14歳で皇位に即く。翌慶応4年(1868年)に元服し、即位したことを内外に宣下する。

幕府と討幕派(薩摩長州藩や一部の公卿)は、それぞれ朝廷への工作を強め、薩長両藩に討幕の密勅が下されそうになったので、征夷大将軍・徳川慶喜が慶応3年10月14日(1867年11月9日)大政奉還を奏上し、明治天皇は奏上を勅許した。江戸幕府は存在したので討幕派は引き続き12月9日(1868年1月3日)王政復古の大号令を発し、新政府樹立を宣言した。

徳川慶喜(在大坂)は幕府勢力の反発を抑えたが、江戸薩摩藩邸は攘夷討幕派浪人を匿い庄内藩屯所襲撃など度重なる騒乱行動を起こしアジった為、ついに12月25日小栗上野介の提言、老中稲葉正邦(江戸留守居役)の命により庄内藩による江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きる。戦わざるを得ない状況に陥った幕府勢力は慶応4年(1868年)正月、新政府軍と「鳥羽・伏見の戦い」を戦ったが敗北した。これは、翌明治2年(1869年)にかけて戦われた内戦=戊辰戦争の緒戦となった。
 

「江戸城無血開城」は戊辰戦争の舞台が奥羽越(東北諸藩)に移る途中の江戸におけるできごとである。私が注目するのは徳川慶喜の行動である。「大政奉還」、「王政復古の大号令」を通じ徳川慶喜には戦意がなかった。やむを得ず戦った「鳥羽伏見の戦い」の後も慶喜は恭順の意を示した。だから、江戸城開城は徳川慶喜の意向である。また、和宮(かずのみや)も天皇家とのつながりで江戸を戦火から守るために新政府と交渉した。イギリスも江戸攻撃に反対した。旧江戸幕府と戦いたいのは薩摩長州藩であったが、これらの背景があったからこそ、勝海舟と西郷隆盛の無血開城交渉は成立した。

奥羽越における会津藩、庄内藩との戦いは、奥羽越列藩同盟が度々「会庄寛宥嘆願書」を提出したにも拘わらず継続された。以上の経過は、明治新政府「戦いたい遺伝子」を持つ政権であったのではないかという疑問を持つ。また、天皇家を権力闘争に利用したが「朝敵」は新政府の意向でつくられたものであり、会津藩にも庄内藩にも日本中どこにも「朝敵」の意思を持つ藩は微塵もなかった。


「明治憲法」は後世「軍部の暴走」を許した。同時に制定された「皇室典範」に天皇の譲位を盛り込むことが議題に上ったが、日本の歴史と伝統を無視し、断固それを拒否したのは「伊藤博文」(長州藩)であったという。上述したように明治維新時の薩長藩は天皇家の権威を利用し、権力を得た。過去の反省すべは反省し、直すべきは直すこと、すなわち、フィードバックして少しずつ(革命、革新的でなく)より良い方向にもって行くのが保守主義というものである。  つづく

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