地震と自助努力   「熊本地震」と「庄内地震」

p06_yamagata[1] (2) 1894 M7.0 : 庄内地震の震源地

地震と自助努力   「熊本地震」と「庄内地震」
 「熊本地震」の報道を見て連想し思い出したのが「庄内地震」である。

1995年(平成7年) 1月17日 阪神大震災(兵庫県南部地震、阪神・淡路大震災)
2004年(平成16年) 10月23日 新潟県中越大震災(新潟県中越地震)
2008年(平成20年) 6月14日 岩手・宮城内陸地震 (4,022ガルはギネス世界記録。山が崩壊
2011年(平成23年) 3月11日 東日本大震災(東北地方太平洋沖地震) 福島第一原発事故
などを経験して、被災者への援助、自衛隊や各県からの応援部隊の派遣など日本の対応は迅速になったと実感している。現在、自衛隊26,000人、警察、消防その他を含め合計3万人の救助隊を派遣、しかし、食料、水などの供給は、不十分であるとメディアは報じている。これも,余震が治まれば、道路網、水道の回復により早期に改善されるであろう。

では、なぜ「庄内地震」を連想したのだろうか?
○出身地のことだから「庄内地震」について多少知識を持っている。
日清戦争 時の地震で、平和で豊かな現在の日本に比べると、国家の援助、国内他地方からの援助は期待できない状況にあった。事実被災地では、「援助は要らない。我々は自助努力でこの難関を克服する」 とした。
○「庄内地震」は酒田市中心の直下、「熊本地震」も震源が浅い内陸直下型地震で余震が多く、家屋の倒壊率が高いことなどが共通している。

image[1] 庄内地震の液状化の写真
 酒田、黒森、浜中などは砂丘地または砂地の地域で液状化現象が起こりやすい。
 東日本大震災でも湯浜~酒田間砂丘縦貫道路沿いに液状化による池・水溜りが散見された。


庄内地震について
庄内地震は、 1894年(明治27年)10月22日17時35分35秒、山形県庄内平野北部酒田市の中心部を震源として発生したMn 7.0 の内陸直下型地震である。日清戦争は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)3月。開戦3カ月、終戦まで5カ月の時点であった。北国庄内(海坂藩)は厳しい冬に向かう季節であった。

震源は極浅く、最大震度は烈震を記録している。余震も数多く発生した。震源は現在の山形県酒田市の中心部であり、庄内平野東縁断層帯で発生したと推定されている。最大震度は当時の震度階級(微震、弱震、強震、烈震の4段階)で最大の烈震である。地震の規模はM7.3、最大震度は現在の7相当と言われる。

地震の発生が日本において本格的に地震観測を始める直前であったということもあり、正確な記録に乏しく、震源についても正確な位置の特定はできていない。


被害
庄内平野、特に酒田を中心に局地集中的な大きな被害を出した。家屋損壊は本荘や山形まで及び、酒田では大火災が発生し総戸数の8割が焼失した(酒田地震大火)。
死者:726人
負傷者:8,403人
全壊家屋:3,858戸(山形県内)
半壊家屋:2,397戸(山形県内)
焼失家屋:2,148戸(山形県内)
破損家屋:7,863戸(山形県内)

庄内平野全域において地盤の亀裂や陥没、噴水・噴砂が多く発生した。例えば、袖浦村黒森(現・酒田市黒森)の砂丘では幅1町(約110m)に渡り深さ30尺(約10m)も沈下し、袖浦村浜中(現・酒田市浜中)では高さ1丈(約3m)の小山が出現した。

この地震によって当時は木造建築が大半であった家屋の破損が相次ぎ、木造建築の耐震性を改めて問うきっかけになった。このことにより、濃尾地震(1891年10月28日)を契機に設置された震災予防調査会が木造建築改良仕様書を発表した。

再来周期 歴史資料が乏しいが、前回の発生は850年頃と考えられ再来周期は約1000年。



意見
熊本地震に最大級の支援をすべきである。
アベノミクス公共投資に「ケチクサイ」という間違いを犯している。思い切った財政出動をせよ。

ニュースを見ていると、支援物資は届いているのに、状況が把握できないため被災者まで届かないというじれったさを感ずる。情報の迅速な共有が望ましい。被災者が食料を持ち寄り、炊き出しを行っている自助努力も見られ心強い報道もあった。

※意見は取り敢えずここまで

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