「吉田松陰と維新の人びと」 という講演を聴く 1

DSC02996.jpg    講演中の森本隆雄先生

「吉田松陰と維新の人びと」 という講演を聴く 1

一、講演を聴く私の前提
この前提は、 講師である森本先生の考えとは関係がない。

①幕末、ペリー来航 時(1853年)の「責任与党」は徳川幕府であり、薩摩・長州藩は「野党」であった。

②薩長は英仏と戦い、大河ドラマ「八重の桜」に描かれた内戦「戊辰戦争」を挑発するなど、日本に植民地化の危ない橋を渡らせた。

生麦事件(1862年)の賠償金の支払いは、徳川幕府が10万ポンド(約100億円)。事件を起こした薩摩藩は支払を拒否し、日本に植民地化の危機を招いたが、薩英戦争に敗れた後、2・5万ポンド(約25億円)を支払う。幕府は国を守る責任与党として賠償に応じ、薩摩は無責任な対応をした。

④徳川幕府には老中首座「阿部正弘」、坂本竜馬の師匠「勝海舟」、日露通好条約交渉でロシアに尊敬された勘定奉行「川路聖謨(かわじとしあきら)」、「十五代将軍徳川慶喜」など人材が豊富であった。 

⑤徳川慶喜は内乱を避けようとして主戦派の小栗上野介などの主張を抑え、江戸城無血開城するなど、薩長との戦いを避けた。内乱による日本の植民地化を避けるための対応をした。

⑥明治維新の痛恨事は「廃仏毀釈」。日本の文化史上類例のない暴挙で貴重な仏教遺産を破壊した。最近の「イスラム国」「アルカイーダ」による「世界遺産・古代遺産」の破壊を連想させる。


⑦「攘夷思想」の変遷に疑問がある。「開国」が必然の段階で「錦の御旗」のための攘夷があったように思われる。

⑧以上より、明治維新の最大の功労者は徳川慶喜であり、薩長は危険な荒ぶる勢力であった。荒ぶる精神は不幸にも維新後に遺伝した。

私にとってこれらはまだ仮説の段階であるが、この視座から森内隆雄氏の講演を聴くことにしていた。


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