庄内藩の「明治元年(戊辰)戦争」

庄内藩の「明治元年(戊辰)戦争」
  <明治元年は荒ぶる年であった。 本稿はある会報誌に800字以内という制限で投稿したもの>

新撰組一番隊組長「沖田総司」の姉ミツが庄内藩鶴ヶ岡城に近い湯田川温泉「新徴組」本部「隼人旅館」に逗留していた。戊申の年、すなわち明治元年(慶応4年、1868年)のことである。徳川幕府と戦いたい薩摩藩々士が放火・強盗などを繰り返し、江戸を混乱に陥れていたが、庄内藩の配下で江戸市中取り締まりをしていたのが「新徴組」であった。

  鳥羽伏見の戦い (明治元年1月2日)」 「江戸城無血開城 (4月11日)」のあと、薩長新政府軍による会津藩攻撃開始が4月19日。 4月23日には最上川上流から庄内藩を奇襲した。庄内藩の天才「酒井吉之亟」は一日でこれを撃退し、今の国道13号線(内陸、そば街道)沿いと国道7号線(海岸)沿いに秋田藩領内の薩長軍を攻めた。「イモ(薩摩)もオハギ(長州)も好物だ」と連戦連勝であった。会津城陥落が間もないという情報を得て(9月16日)巧みな戦術で無傷で庄内領に撤退した。 

  hagunsitiseiki[1]  破軍星旗 酒井吉之亟が指揮した庄内藩二番大隊の軍旗

9月22日会津若松が落城し、3日後の25日庄内藩は自領に薩長軍を一歩も入れないまま降伏・講和した。
西郷隆盛
の意向で戦後処理が穏便になされた。庄内藩は西郷を尊敬し、鶴岡市「致道博物館」の西郷関係の資料は非常に充実している。   
 
酒井吉之亟(玄蕃、ときに26歳)は鬼玄蕃と恐れられたが、性格は温和で慈悲深かった。会津戦線の薩長軍は、白虎隊などの死体の埋葬を禁じ、さらしものにし、恨みを後世に残したが、玄蕃は乱暴狼藉を厳しく戒め、敵兵の死骸も手厚く埋葬した。

鶴岡市在住の直木賞作家「佐藤賢一」が小説『新徴組』(新潮社)を書いている。一読をお薦めするとともに、映画化され、明治元年という年のあまり知られていない歴史が広く再認識されることを望んでいる。
今年5月、大学の同窓会で湯田川温泉に宿泊した。「隼人旅館」の真向いの宿であった。明治元年が最近であることを実感した。



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