赤松小三郎

th[9] 赤松小三郎(あかまつこさぶろう)記念館


赤松小三郎 あかまつこさぶろう 
天保2年4月4日(1831年5月15日)  - 慶応3年9月3日(1867年9月30日)
信州上田藩出身 名前が知られていないのは権力(薩摩藩、明治政府)により存在を抹殺されたためという。

慶応3年5月、「建白七策」を福井藩松平春嶽と薩摩藩島津久光に提言した。
その一カ月後の慶応3年6月坂本龍馬「船中八策」を起草した。「船中八策」は「建白七策」を下敷きにしてスローガン的に八項目にまとめたものといわれる。


赤松小三郎は慶応3年9月3日、薩摩藩中村半次郎(桐野利秋)等により暗殺された。
坂本龍馬はその約2カ月後の慶応3年11月15日に暗殺された。暗殺犯には諸説があるが、薩摩藩の大久保、西郷黒幕説がある。


薩摩の「武力討幕路線」に反対の立場で、議会政治の導入により幕府と朝廷・薩摩の対立を融和させようと動いていたことが暗殺の原因になったものと思われる。<赤松小三郎と坂本龍馬両者に共通する原因>


業績
建白七策=民主的議会政治 の提言 
慶応3年(1867年)5月17日に、前福井藩主・松平春嶽に「御改正之一二端奉申上候口上書」という建白書を提出した。また同じく5月、同様の建白書を薩摩藩島津久光にも提出している。
この建白書の中で、二院制の議会(議政局)政治を提唱した。これは、身分にとらわれない民主的な普通選挙による議会政治を提言した文書として、日本最初のものである。


上局:定数30人 貴族院に相当:朝廷と幕府と諸藩の融和の象徴として、公卿と諸侯と旗本より選出される。
下局:定数130人 衆議院に相当し、議員は、各藩を基礎とした選挙区から「門閥貴賎に拘らず道理を明弁し私なく且人望の帰する人」を、入札(選挙)によって公平に選ぶべしとされた。
国事は総て此両局にて決議」とされ、議会は国の最高議決機関と位置付けられている。


建白書の中では、内閣総理大臣(「大閣老」)以下6人の大臣を議会が選出するという議員内閣制度も提言されている。また、議会の決議事項に対しては、天皇ですら拒否権を行使できないとされた。

他の建白された項目として、
主要都市に大学を設置し全国民への教育機会を提供すること、
人民平等の原則に基づき農民に重すぎる税負担を軽減、全ての職種に公平な税率を課すこと、
金貨・銀貨を国際的なレートに従って鋳造し直し、物品の製造にあわせ通貨供給量の拡大を計ること、
陸軍と海軍を拡充し諸民からも軍人を養成して士族の割合を徐々に減らすこと、戦時には国中の男女を徴兵可能にすること、
西洋から顧問を迎え入れ各地に諸物製造所を設け産業を振興すること、
肉食を奨励し日本人の体格を改善すること、家畜も品種改良すること、など。


赤松小三郎が 建白七策の提言をした一カ月後の慶応3年6月15日
坂本龍馬の「船中八策」が起草されている。これは「建白七策」を下敷きにしてスローガン的に八項目にまとめたものといわれている。(上述)



暗殺
赤松小三郎は慶応3年9月3日(1867年9月30日)に、坂本龍馬は 慶応3年11月15日(1867年)に暗殺された。

薩摩藩士で赤松小三郎の門下生であった中村半次郎と田代五郎左衛門に暗殺された。中村半次郎はその日記で「幕奸」(幕府のスパイ)だから斬ったと記述している。赤松が薩摩の軍事機密を知りすぎていたこと、薩摩の武力討幕路線に反対の立場で、議会政治の導入により幕府と朝廷・薩摩の対立を融和させようと動いていたことが暗殺の原因になったものと思われる。すなわち、薩摩は幕府と戦争をし、新政府に徳川が入ることを嫌っていた。

坂本龍馬の暗殺説は色々あり、定まっていないとされるが、赤松小三郎と同じ原因で、同じ黒幕だとする説もある。

薩摩藩からは国元に招聘されたものの、薩摩藩の武力討幕計画を知って拒否した。内戦の危機を回避しようと、慶応3年8月まで「幕薩一和」を求めて、薩摩の西郷隆盛や小松清廉、幕府の永井尚志らとギリギリまで交渉していた様子が兄宛の書簡からうかがえる。

出身地の上田藩より度々召還命令を受けたが拒否をし続けたものの、慶応3年(1867年)9月に呼び戻されることになった。その帰国の直前、京都・東洞院通りで薩摩藩士で門下生であった中村半次郎と田代五郎左衛門に暗殺された。中村半次郎はその日記で「幕奸」(幕府のスパイ)だから斬ったと記述している。赤松が薩摩の軍事機密を知りすぎていたこと、薩摩の武力討幕路線に反対の立場で、議会政治の導入により幕府と朝廷・薩摩の対立を融和させようと動いていたことが暗殺の原因になったものと思われる。

赤松の墓は金戒光明寺にあり、その墓誌には「薩摩受業門生謹識」として師匠を称える言葉と死を悼む言葉が書かれている。遭難の地には記念碑が建てられている。故郷上田の月窓寺には遺髪墓がある。


英国式兵学者としての業績
慶応2年(1866年)より、京都に私塾を開き、英国式兵学を教える。門下生には、薩摩・肥後・会津・越前・大垣などの各藩士から新選組の隊士までが含まれており、呉越同舟状態であった。

ついで薩摩藩から兵学教授として招聘され、京都の薩摩藩邸において中村半次郎・村田新八・篠原国幹・野津鎮雄・野津道貫・黒木為楨・東郷平八郎・樺山資紀・上村彦之丞ら約800人に英国式兵学を教え、藩士たちの練兵も行った。薩摩藩の兵制を蘭式から英式へと改変するのに指導的役割を果たした。

また会津藩士・山本覚馬より会津藩洋学校の顧問就任を依頼され、友人の西周と共に会津藩洋学校の顧問を務めた。

スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

 辻 幸弥 (つじこうや)

Author: 辻 幸弥 (つじこうや)
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR