靖国は国内問題 2

鳥海山     庄内の風景  鶴岡市赤川土手から見る鳥海山 9月

靖国は国内問題 2
靖国神社が日本の国のために戦死した英霊を祀る神社とは認めがたい理由を例証する。

「八重の桜」の第1回は戊辰戦争と南北戦争二つの戦争場面から始まった。
<カテゴリ「八重の桜」を参照。再読おすすめです>


南北戦争は激しい戦いで戦死者も多く、意外に思うかも知れないが、リンカーンは戦争に勝つために手段を選ばず、老人・子供をも攻撃対象にした。

戊辰戦争は薩長(明治新政府)が如何にして戦いに持ち込むか画策した戦いであった。徳川側は譲歩を重ね、会津藩、庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的として奥羽列藩同盟が結ばれ、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書を提出したが、薩長新政府は拒絶した。世良修蔵の密書の中に「奥羽皆敵」の文面を見て、奥羽列藩同盟は奥羽越列藩同盟31藩として拡大再結成されるに至った。かように薩長新政府は好戦的であった。

官軍の白虎隊始末記
明治元年9月22日に会津藩が降伏して、「官軍」の戦死者はすぐに埋葬されたが、奥羽越列藩同盟軍の戦死者は、翌春まで放置された。新政府の会津征討軍は、遺体に手を触れることさえ許さなかった。飯盛山で自刃した白虎隊士の遺体が発見されたのは雪が降ってからで、滝沢村肝煎(きもいり)吉田伊惣次が、少年たちを近くの寺に仮埋葬したが、それが罪に問われた。あげくの果てに、戦後処理にあたった新政府民生局監察方兼断獄の福井藩士久保村文四郎は、少年たちの遺体を掘り起こして元の場所に捨てるよう吉田伊惣次に命じたのである。久保村文四郎は任期を終えて帰国途上、旧会津藩士に暗殺された。


庄内藩の横手城攻略記
庄内藩は破竹の勢いで総督府軍と秋田軍を追撃し横手城を攻略した。庄内の指揮官は松平甚三郎と酒井吉之丞(別称;玄蕃、了恒、吉弥)、横手の城将は秋田の家老戸村十太夫の子大学、わずか20歳であった。父十太夫は秋田にいて不在。庄内軍は流血を避けるため投降するよう勧告したが、投降せずわずか一日で落城した。
翌日、庄内軍は城のあちこちに横たわる死体を集め、城北の竜昌院に運んで葬り、僧侶を呼んで読経、供養し、「佐竹家名臣戸村氏志士墓」と書いて標柱を建てて前線に立ち去った。標柱の背面には、「奥羽義軍葬埋礼拝感泣して過ぐ。惜しいかな、この人々の氏名を知らず。もしこれを知る者あらは、あきらかに追記せんことをこいねがう」と書きつけた。


戊辰戦争で庄内藩は連戦連勝で庄内藩の領内で戦ったことはなく破竹の勢いで新庄藩や秋田領内に押し込んだ。官軍が拮抗する戦いをするようになったのはようやく佐賀藩が参戦してからであったが、会津藩が降伏した二日後庄内藩も西郷隆盛相手に和睦、投降した。

庄内藩に比べ、薩長軍の敗者への扱いは残酷を極めた。誰でも知っている「白虎隊」。その始末もかくのごとしであった。かくして薩長明治維新政府が建立した靖国に会津、庄内の英霊は祀られていない。維新に流血が必要だという論理なら彼らも英霊である。必要ないと言うなら余計な流血の責任は薩長新政府にある。

南北戦争は凄惨を極めた内戦であった点では戊辰戦争と同じである。白虎隊などの英霊が祀られていない靖国神社は、南北戦争の両軍の英霊を祀るアメリカのアーリントン墓地と同列ではない。これは日本の歴史、伝統に、近くは武士道にも反することで、日本人として悔しいことである。

安倍首相を私は支持している。但し、靖国問題に関する限り、単なる長州閥の政治家に見えて仕方がない。

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