戊辰戦争と庄内藩

DSC00157.jpg             庄内の風景 鶴岡市の赤川土手から望む月山

戊辰戦争と庄内藩

八重の桜』で会津を攻める新政府軍に『大山厳(弥助)』と『板垣退助』の名はあるが、『西郷隆盛』はいない。同時進行で「庄内藩」を攻めていたからだ。ドラマとして『西郷』の出番が欲しい、と言う訳か、「庄内 新政府軍 薩摩藩陣所」が映し出され、西郷「会津はまだ落ちんか」「我らも田舎侍じゃぞ」「新しかこん国ん為に」などとのたまう。

 昭和7(1932)年86歳まで波乱万丈に生きた「八重」の生涯を描くのだから、庄内戦線はこんなものなんだろう。そこで新政府軍と庄内の戦いについて以下に述べる。

 
庄内藩は、元治元年(1864年)江戸市中警護の功により2万7千石を加増され石高は16万7千石となった。薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃した為、慶応3年(1868年1月19日)砲火により江戸薩摩藩邸を焼討した。薩摩藩は徳川側と交戦する大義名分を欲して放火や、掠奪・暴行など蛮行を繰り返したが、庄内藩がそれにのってしまったのである。この事件が明治政府軍による徳川家武力討伐のきっかけとなり戊辰戦争のトリガ-(引き金)となった。

1868年、会津藩と庄内藩の謝罪嘆願を目的とした奥羽越列藩同盟が結成された。同盟の主旨から、会津、庄内両藩は加盟していない訳であるが、会津藩と庄内藩との間に会庄同盟が締結された。

庄内藩は、戊辰戦争で明治政府に与した新庄藩、秋田藩領内へ侵攻。当時日本一の大地主と言われ庄内藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入。清川口に攻め入る明治政府軍を撃退。その後、新庄を落とし、内陸と沿岸から秋田へ攻め入った庄内軍は中老酒井玄蕃率いる二番大隊を中心に連戦連勝、明治政府軍を圧倒した。内陸では横手城を陥落させた後さらに北進、久保田城へ迫ったが、戦線は刈羽野付近で膠着状態となった。

列藩同盟の一角である米沢藩が降伏したため、藩首脳部は撤兵を決断、さらに会津藩も降伏し、庄内藩以外のすべての藩が恭順した。明治元年9月26日(1868年11月10日)、会津藩降参の2日後、庄内藩も恭順した。恭順したものの庄内藩は最後まで自領に新政府軍の侵入を許さなかった

12月に領地没収。11代・忠篤は謹慎処分となったが、弟・忠宝が12万石に減封の上、陸奥国会津藩へ、翌明治2年(1869年)6月には磐城平藩へと転封を繰り返した。本間家を中心に藩上士・商人・地主などが明治政府に30万両(当初は70万両の予定だったが揃わず減額が認められた)を献金し、明治3年(1870年)酒井氏は庄内藩へ復帰した。

共に列藩同盟の盟主であった会津藩が解体と流刑となったのとは逆に、庄内藩は比較的軽い処分で済んだ。これには明治政府軍でも薩摩藩の西郷隆盛の意向があったと言われ、この後に庄内地方では西郷隆盛が敬愛され、明治初期に薩摩藩へ留学生を出すまでに至っている。明治2年9月29日、藩名は大泉藩と改称された。同年、胆振国虻田郡を領有している。

明治4年(1871年)廃藩置県により大泉県となる。後、酒田県や鶴岡県への改名を経て、1876年8月21日に山形県に編入された。
 
尚、酒井氏は明治17年(1884年)伯爵となり華族に列している。


<追記>
映画「たそがれ清兵衛」 (藤沢周平原作、山田洋次監督)で、「清兵衛」は戊辰戦争で流れ弾にあたって亡くなる設定になっている。その舞台海坂藩とは庄内藩のことである。
但し、原作である三つの短編「たそがれ清兵衛」、「竹光始末」、「祝い人助八」にそのような記述はない。


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j時代感覚

昭和7年はつい最近のような気がする。
1932年ですから81年前。
「八重」が生きた歳月の約2回分か。

映画「たそがれ清兵衛」のラストシーンで
「岸恵子」(清兵衛の娘役)が墓の前で回顧するシーンも昭和初期。

平均寿命の「お祖母さんのお祖母さん」が生まれた頃。
「戊申戦争」は我々の時間間隔が何とか届く範囲にあるような気がする。

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