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渋沢栄一 新10000円札の肖像画の人物像

渋沢栄一
新10000円札の肖像画の人物像
1840年3月16日(天保11年2月13日) ~ 1931年11月11日(昭和6年)(満91歳没)
武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)出身
江戸時代;百姓(名主階級)、武士(幕臣)
明治時代:官吏、実業家、教育者

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                     新10000円札 渋沢栄一の肖像

『日本資本主義の父』と呼ばれ、日本に『株式会社』制度を定着させた。自らは『財閥』をつくらず、民業の繁栄を通じて『公益』の道を進めた。利己益の追及を戒め、企業の社会的責任・企業統治(コーポレートガバナンス)を追求・実行した先駆者であった。
現在、『グローバリズム』の名のもとに、世界を席巻する世界中の(ゴーンのような)経営者・資本家に『爪の垢を煎じて飲ませたい』日本が誇る立派な人物である。
だからこそ今、日本国の最高額10000円札の肖像に最もふさわしい人物と思われる。


中国にも『渋沢栄一』が欲しいということで、中国が『渋沢栄一』の研究をしたというが、その政策からは『渋沢栄一』流の企業の社会的責任・企業統治(コーポレートガバナンス)の精神は爪の垢ほども感じられない。数百社もの会社を手っ取り早く設立する能力が欲しいだけなのであろうか。
ピータードラッカー(世界的経営学者)も渋沢の賞賛・崇敬者の一人だが「経営の『社会的責任』を論じた歴史的人物の中で、日本の資本主義を築いた人物である『渋沢栄一』の右に出るものを知らない」と言っている。
なお渋沢は1926年、1927年(大正元年、2年)のノーベル平和賞候補になっている。


渋沢栄一が創業に関与した企業は第一国立銀行や東京証券取引所など多種多様で480社におよぶが、うち300社が今なお事業を継続しているという。
教育者としては、二松學舍第3代舎長(現在の二松学舎大学)を務めた他、商法講習所(現在の一橋大学)、大倉商業学校(現在の東京経済大学)の設立にも尽力した。
多方面に活躍したが残念ながらここには書き切れない。


渋沢栄一の原点
は15代将軍徳川慶喜の幕臣時代にある。渋沢栄一が尊敬してやまない人物は徳川慶喜であった。
慶喜が将軍となった(1866年(慶応2年)12月5日—1867年(慶応3年)12月9日)のに伴い幕臣となり、パリで行われる万国博覧会(1867年)に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・徳川昭武の随員としてフランスへと渡航し、パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、社会を見て感銘を受ける。昭武とともに帰国したのは、慶喜による大政奉還(1867年11月9日(慶応3年10月14日))がなされた後のことで、新政府の命令による1868年12月16日(慶応4年11月3日)のことであった。


帰国した渋沢は徳川慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受した。
渋沢栄一という才能と人格を見出し、万博派遣というチャンスを与え、明治の日本国へおくったのは徳川慶喜その人であったのだ。
明治維新の際、西欧列強の植民地にならなかったのは慶喜による『大政奉還』により内乱を未然 に最小に防いだからである。薩長は負けても敗者復活で喧嘩したくてしょうがない状態で、内乱を避けるため妥協し、日本を救ったのは徳川慶喜であった。



『戊辰戦争』 (明治元年戦争)は『薩長藩閥』の尻の穴が小さいことを示す恥じる程度の意味しかないことを国民は知るべきである。薩長に惨殺された「明治の父」(司馬遼太郎)と称される小栗上野介、米露との外交に活躍した川路聖謨(かわじとしあきら)などの外交官僚など江戸幕府には有能な人材が多かった。
これら徳川幕府の人材と協調し明治政府を運営すれば、 『大日本帝国憲法』 (明治憲法)という欠陥憲法で軍部の跳梁跋扈を許し、あれだけ多くの戦争をすることはなかっただろう。

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新元号 『令和』 (れいわ、REIWA)

新元号 『令和』 (れいわ、REIWA)
4月1日、新元号が『令和』と決まり発表された。万葉集が出典で日本の古典からははじめてという。
言葉としての響きが良い。簡素な字画の姿が良い。その意味に深い味わいがある。出典 が良い。・・・etc

    DSC09326.jpg
 図の右5案の他に国書(日本古典)由来の案をさらに出すよう、中西進氏らに追加依頼した。その中から
 『令和』を3月最終週に加え、計6案が4月1日の有識者懇談会に示す原案となった。(図はNHKテレビ)



『令和』の出典
万葉集 巻第五
梅花の歌三十二首并せて序 天平二年正月十三日(西暦730年2月10日)
作者大伴旅人:大宰府の帥大伴旅人の邸宅に集まって宴会を開いた。その一節
「初春令月、氣淑風和」     初春の令月にして、氣淑(よ)く風和(やわら)ぎ

漢籍:後漢時代の文人張衡(ちょうこう、西暦78年~139年)の詩『帰田賦』(文選)
「仲春令月、時和気清」     仲春の令月、時は和し気は清む

大伴旅人の文章(漢文)は明らかに張衡の「帰田賦」を下敷きにしている。
優れた文学へのリスペクトあるいはオマージュとして、尊敬する先人の作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事はよくあることであるが、それはときに素晴らしい傑作を生む。日本には『本歌取り』の伝統がある。
大伴旅人の序、『梅花の宴』を開いたことおよび漢文の文章をしたためたこと、は王義之の「蘭亭序」を模している(中西進氏)。王義之と張衡の漢籍は二重に大伴旅人のあこがれであったのであろう。


日本の古典から選んだのは間違いないが、それを書いた大伴旅人は中国の王義之、張衡へのオマージュがあったことは認識すべきである。
これらすべてを含めて、元号『令和』の選定は素晴らしい。

大伴旅人は大宰府長官(帥)。山上憶良(筑前守山上太夫)もこの宴に参加している。大宰府がある筑前国の言わば知事(筑前守)が山上憶良。この『序』文は憶良作との説もあるらしい。地位は大宰府帥旅人がかなり上。

『令和』の提案者は萬葉学者の中西進氏』だと報道されている。真実であろう。

※参考:中西進 萬葉集 全訳注 原文付 講談社 昭和59年9月 377~386頁

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Author: 辻 幸弥 (つじこうや)
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