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大雪と寒波の記録 さいたま市

大雪と寒波の記録  さいたま市
1月22日(月)、さいたま市にしては大雪が降った。東京都でも23cmの積雪を記録したという。
雪国生まれで大学を北海道で過ごした私にとっては驚くほどのことではないが、さいたま市の住民としては、驚くべきことであろう。
25日には最低気温零下6.3℃まで低下した。驚いて氷川神社の池に張った氷(すがこ)を撮影に行ったが、翌26日朝の最低気温はさらに下がり零下9.8℃であった。

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       氷川神社参道平成広場 1月23日7:18am  朝日に輝く着雪した樹木が美しい

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       参道より大宮駅方向を望む 1月23日7:22am  

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       街中の風景  1月23日1:59pm  

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       1月25日7:31am 氷川神社の参拝は回廊を通って行く。
                    いつもの玉砂利の通路は除雪していない。

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       1月25日7:34am 雪の中の氷川神社

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       1月25日7:36am  氷川神社前池に張る「すがこ」 
                     これを「天井っこ」として見ているのは鯉と亀  亀は冬眠中か?

 
 <追記>
28日日曜日の朝、荒川河川敷内の「大宮田んぼ」に遊びに行った。田んぼの手前が土手で道路にはまだ雪が残り凍り付いている部分もある。途中、坂道の下に駐車し、慎重に道路の状況を点検していた仲間と坂道の途中に停車し話し、再発進するとき少しスリップしたが感触としては問題はなかった。凍り付いた坂を昇るときは停車せずなるべく一定のスピードで登ることが鉄則である。安全第一である。反省!
低温で雪がまだ残り、ウインチの設置ができないので、遊びはあきらめた。降雪より約1週間経ってもこれだけ雪が残っているのは極めて寒く低温だったことを物語る。

学生時代、夜、札幌駅前を歩いていたとき、電光掲示板が零下20℃以下を示していたことがあったのを思い出すが、最近札幌市の最低記録は零下20℃に至っていないようだ。しかし、1929(昭和4)年には零下28.5℃の記録もあるから私の錯覚ではないと思う。寒さの感触は憶えていないがそれほどでもないと思っていたように思う。寒さを数字とともに認識しているこれまでの最低温度の記録であるが、さいたま市での零下9.8℃は、それに匹敵する経験かも知れない。

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NHK大河ドラマ「西郷どん」

NHK大河ドラマ「西郷どん」

     SID0032903[1]  NHK

今年の大河ドラマ「西郷(せご)どん」(西郷隆盛)が放映中である。
明治維新150年であるが、今、明治維新の歴史の見直しが盛んである。
私にとって明治維新はまだ生々しいし、色々な著書が次々発表されている現実もあるから、NHKが「西郷」を取り上げるのにはやれやれという思いがあり、批判的である。

林真理子原作小説「西郷どん」の起用というが、これが歴史の常識になっていくから怖い。
お馴染み「司馬遼太郎」の小説の歴史観に私は食傷気味であるが、これも小説という創作であることを強調したい。しかし、司馬史観の日本人の歴史観への影響は大きく、政治家、評論家、俳優やタレントにも「坂本龍馬教(竜馬(小説名)狂?)」信者と言える人が多いのはその一例であろう。


学校で教える歴史は時の権力の影響が大きい。明治維新の歴史は当然明治新政府の影響が大きい。
低い塀で囲んだだけの平和の館である御所をまるで城郭であるかのように攻撃し天皇を連れ去ろうとしたのも、天皇の威を借り「偽綸旨」で「錦の御旗」を振りかざし、大勢を有利に導いたのも長州藩である。長州藩こそ朝敵であることを示している。会津・荘内藩、奥羽越列藩同盟は朝敵ではない。


「大政奉還」で平和裡に政権をつくるのに異を唱え、江戸市中を「押し込み」「強盗」「火付け」の限りを尽くして騒がせ、薩摩江戸藩邸を焼き討ちさせ「戊辰戦争」の口実を作ったのは西郷隆盛その人である。西郷が戦争好きであったことは確かである。歴史教科書で挿絵付きで習った「江戸城無血開城」は「戊辰戦争」という大事の前には小事に過ぎない。西郷の人物・人格のことは知らぬが、そんなことを大河ドラマで百題・百篇並べても戦争という大事の前の小事だ。


戊辰戦争がなかったら、明治新政府のまとまりは少なく内部分裂もあったであろう。しかし、その後の征韓論、日清戦争、日露戦争など、戦争ばかりやっていた明治新政府のことを考えるとその方がまともな歴史をたどったかも知れない。産業育成策や外交は維新前に大いなる萌芽と実績があったし(維新政府はそれを隠したので多くの日本人は知らない)、人材も豊富であった。戊辰戦争のどさくさで失った惜しい人材も多かったのは残念でならない。

私は旧庄内藩出身であるが、譜代である庄内藩は「会庄同盟」(会津藩と庄内藩の同盟)を結び戊辰戦争を薩長と戦った。間もなく長期政権で安倍首相に抜かれ話題になるであろう「桂太郎首相」(長州藩)は戊辰戦争のとき秋田領を庄内藩から逃げ回り、部下の半数を死傷させた。 
庄内藩が戊辰戦争の矛をおさめたとき、庄内藩に江戸薩摩藩邸を焼き討ちさせた「西郷」は庄内藩に寛容だった。庄内藩は西郷を多とし尊敬しているが、私は西郷に「庄内藩には借りがある」という気持ちがあったと解釈している。(庄内藩が敗者ではないと考えた可能性もある。)



<結論>
西郷隆盛は戦争好きであった。また、薩長藩は明治維新というものに「関ケ原の戦い」の継続(敵討ち)以上の哲学をもっていなかった。その戦争の遺伝子は明治維新から敗戦(1868年~1945年)まで受け継がれ、日本は戦争ばかりやっていたことになる。司馬遼太郎は日清・日露戦争以後の戦争を問題とするが、私はすでに明治維新に問題があったと確信している。

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