平川一臣 という人

吉里吉里浜2      
吉里吉里浜 (岩手県大槌町)  2014年4月17日撮影  
破壊された防潮堤が散乱する。 歩くと砂浜はかすかに鳴いたが、私は大震災前の鳴きの程度を知らない。
ここは、井上ひさしの小説「吉里吉里人」の語源ではあるが、小説の舞台ではない。
小説の舞台は、あの朝ドラ「あまちゃん」を書いた「宮藤官九郎」生誕の地若柳(栗原市、宮城県最北)である。


平川一臣 という人
NHKBSで宮沢賢治について語ったことが印象に残っている。
  カテゴリ<平川一臣 津波堆積物の研究>をクリック、最下段(2012年9月27日)の記事
そして、井上ひさしについて以下のように語っている。平川さんのブログから<コピペ>する。
この方、読書の少なくとも一部分は、好みが完全に私と一致する。嬉しい限りだ



閑話休題かな?
カテゴリ : Diary 執筆 : hkazu 2012-2-11 13:45 .
このところ,取材が多い.当然だろうが・・・,でも,取材で聞かれているうちに,自分の頭がさらにクリアになっていくことを感じながら,揺るがない確信と,問題点を残している部分がさらに仕分けられていることを感じ取っている.丁寧に応対しなくっちゃ!.  

3.11 津波に学ばねばな。らないことは,まだまだいっぱいあるのだが・・・,すでに(研究の側面でさえ)忘れられつつあるのだろうか???・・, 3.11津波の様相を丁寧に地形図上で見直し,分析的に考え,検討していて・・・,ちょっと疲れた.その瞬間に,実在する集落(地名)が脳を刺激して,

吉里吉里浜
吉里吉里浜全景    2014年4月17日撮影
最近、浸食され狭くなって行く砂浜が多い。その共通点は重い砂鉄の残留比が高く黒っぽいことである。
しかし、ここの砂は石英の粒がキラキラと輝き、砂鉄の黒っぽさを感じさせなかった。

井上ひさし「吉里吉里人」を思い出した.・・・抱腹絶倒,才気煥発,博覧強記,縦横無尽,痛快無比,(品性不良)・・・,あらゆる四文字熟語を勝手に並べて(造語しても)なんでもOKになる,ひとりでにやにやし,納得し,啓発され・・・・.”ふかいことを,おもしろく”井上ひさしさんは,いい.本当にいい.腹筋を鍛えるのに(ついでに,アタマと心の筋肉を鍛えるのに)最適にして最良の方法ではなかろうか?まちがっても,電車の中や,授業中(内職)に読まないことだ: ここで急にマジメになってですね,・・・,

3.11以降,取り憑かれたように津波について調査し,考え,ただただ夢中で過ぎた1年だった.とくに頑張ったわけではない.しかし,1日として倦むことなく弛むことなく(ちょっとは弛んだか!?),毎日緊張感を持って,勤勉に日々が過ぎてきた,そういう勤勉,緊張感のなかにいる自分が好きだ,そう言える感覚が嬉しい.

65歳に達せんとするこの期になって,そういう精神とそれを支える身体でいられるのが,とにかく嬉しい.津波でなくなった人達を前に,そんなことを言ってはならないのだが,まったく違う意味での”3.11への個人的謝意”だと書き残しておきたい. ・・・なんちゃって,とここでドイツ語風におふざけでマジメに混ぜ返すことができれば,井上ひさしに弟子入りできるのだがなあ,と非才を悲しむのみ.あちらの世界に行ってから考えるしかない. やっぱり閑話休題でした. .

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内閣人事局

0[1]  菅義偉官房長官
内閣人事局

4月12日、各省庁の事務次官や局長、審議官など約600人の人事を一元管理する「内閣人事局」の新設を柱とした公務員制度改革関連法が成立した。官僚組織は「省益あって国益なし」と批判されてきた。新たな行政課題に次々と直面する時代にもかかわらず、機動的な政策を展開できない。国益より省益にこだわるとされる霞が関の体質改革につながるのか注目される。

人事局は政治主導を強化し、縦割り行政を排した能力本位の人事管理につなげるのが目的である。
現行では実質的に各省庁ごとに人事を決めているが、今後は幹部候補者名簿を作成し、首相や官房長官が関与して任用する。政府は今夏の幹部人事に間に合うよう、5月中の設置を目指している


安倍晋三政権は、内閣法制局の小松一郎長官や厚生労働省の村木厚子事務次官ら、すでに霞が関の慣例を排した官邸主導の人事を行っている。今後は安全保障政策や女性登用など首相が掲げる重要課題について、より首相の意向を反映した人事戦略を実行する。

安倍政権の女性登用の一環ととれるが、女性初の人事院総裁に、裁判官出身の一宮なほみ氏(65)が就任した。一宮氏は4月14日に記者会見し、女性の省庁幹部などへの登用について「私が後に続く人の励みになれば、これ以上うれしいことはない」と語った。

菅義偉官房長官は10日の会見で「官僚は国益よりも省益だと言われていたが、国益を優先して国、国民の奉仕者としてがんばっていただく」と内閣人事局設置の意義を強調した。

安倍首相―菅義偉官房長官の強力な内閣だから官邸主導の人事をすでに行っているが、政治主導の人事が機能するには政治家の資質・実力が問われることになる。

規制緩和に対するの官僚の抵抗を弱め、アベノミックスの第3の矢が放ちやすくなることを期待する。

太田道潅の「山吹伝説」

DSC09489.jpg              「道潅濠」近くの「山吹の群生」

太田道潅の「山吹伝説」

太田道灌がはじめて「江戸城」を築城した名残として,「乾通り」に「道潅濠」があり、
道潅の「山吹伝説」に因み道潅濠のそばに「山吹が群生」し、今花盛りであった。


太田道灌:室町時代後期の人。1432年〜1486年8月25日 (永享4年〜文明18年7月26日)

江戸城築城
太田道潅は敵方の有力武将を抑えるため、江戸氏の領地であった武蔵国豊嶋郡に江戸城を築城した。
『永享記』には道灌が霊夢の告げによって江戸の地に城を築いたとある。
また、『関八州古戦録』には品川沖を航行していた道灌の舟に九城(このしろ)という魚が踊り入り、これを吉兆と喜び江戸に城を築くことを思い立ったという話になっている。


これらの霊異談は弱体化していた江戸氏を婉曲に退去させるための口実という説がある。
江戸城が完成したのは、長禄元年4月8日(1457年5月1日)であったと言い伝えられている。


DSC09496.jpg<                  「乾通り」の桜
 
山吹伝説
道灌が父を尋ねて越生の地に来た。突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄った。
その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。道灌は、蓑を借りようとしたのに花を出され内心腹立たしかった。後でこの話を家臣にしたところ、それは後拾遺和歌集の「「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、山間(やまあい)の茅葺きの家であり貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。


古歌を知らなかった事を恥じて、それ以後道灌は歌道に励み、歌人としても名高くなったという。
豊島区高田の神田川に架かる面影橋の近くにも山吹の里の碑があり、1kmほど東へ行った新宿区内には山吹町の地名があり、伝説の地に比定されている。また、落語にこの故事をもとにした『道灌』という演目がある。


皇居観桜

DSC09457.jpg       坂下門

皇居観桜

天皇陛下の傘寿を記念して「坂下門」から「乾門(いぬいもん)」の間の「乾通り」が観桜のため4月4日から8日まで一般公開されている。4月4日(金曜日)に5万人の人出で賑わったことをニュースで知り、翌5日(土曜日)の計画に入れた。すなわち、午後1時から銀座で大学の同窓会があるが、その前に皇居で花見をすることにした。

私にはもう一つの花見の目論見があった。坂下門から皇居を通り乾門を抜ければそこは「北の丸公園」。北の丸公園の散策路で思い出深い花見をした鮮明な記憶があり、そのシーンに再び遭遇したいと思ったのである。

DSC09486.jpg         道潅濠

数年前、桜が散るころ北の丸公園の千鳥ヶ淵沿いを歩いた。その日は千鳥が淵墓苑の方角からかなり強い風が吹いていた。土手の斜面沿いに駆け上がる風に乗り、無数の花びらが吹き上がっていた。土手下の水際まで桜の木が植えてあり、花弁は水面近くから斜面上昇風に乗り吹き上がっていたのである。

斜面上昇風を利用して滑空機(グライダー)を飛ばすが、花弁一枚一枚がグライダーになり目の前に吹き上がってきたのだった。私は思わず墓苑に向かって祈ったことを覚えている。

DSC09488_20140407000132a43.jpg       道潅濠傍の「山吹の花」

10時10分ほど前に東京駅に着いた。東京駅はごった返していた。坂下門には中央口または北口が近い。しかし、人の流れは皇居前を左折し、桜田門の方向へ右折し、また右折していわゆる二重橋前を通り、坂下門へ誘導されている。人の列はそこで大渋滞に陥った。荷物検査、ボデイーチェックを受け、坂下門を通過したのは11時20分頃だから、東京駅から約90分かかったことになる。今日6日、クラブの友人に聞いたところ、10時30分ごろ東京駅に着いたら、今日は皇居に入るのは無理だといわれあきらめたという。ニュースによると皇居参観者数は9万人を超えた

風は千鳥ヶ淵墓苑の方向から吹いていた。散る花びらは多くない。少ない花びらであるが下から吹き上げる弱い風の影響で落下速度はゆっくりしている。中には舞い上がる花びらもある。こんな風に花見をしている人は私のほかにいないであろう。「ここでは桜の花びらがゆっくり散りますね」と心の中で呟いた。

DSC09513.jpg       「北の丸公園」千鳥ヶ淵沿いの土手下を望む   対岸から漕いで来たボートが見える

地下鉄九段下駅に着いたのが12時30分ごろ。
日本橋で乗り換え銀座で降り、13時10分前に無事同窓会会場に着いた。


カテゴリ「明治元年」

尖閣

カテゴリ 明治元年

カテゴリの再整理  <右カテゴリ欄の「明治元年」をクリック>
カテゴリ「八重の桜」をカテゴリ「明治元年」に改める。
「戊辰戦争」は明治元年に戦われた。我々には「戊申の年」より「明治元年」の方が実感できる。
白虎隊も会津藩・庄内藩の戊辰戦争も明治元年のことなのだ。



慶応2年12月25日 1867年 1月30日 孝明天皇が崩御

慶応3年 1月 9日 1867年 2月13日
      儲君(皇太子)睦仁親王が践祚して皇位を継承(明治天皇)した。

慶応4年 1月 1日 1868年 1月25日 に遡って明治元年と定めた。 
         (慶応4年を改めて明治元年と為す)と法的に定められた。

慶応4年 9月 8日 1868年10月23日 改元の詔書が出された。


※ 慶応4年=明治元年=1868年は、戊辰(つちのえたつ、ぼしん))の年。
  すなわち戊辰戦争は明治元年戦争である



関連する政変
慶応3年10月14日 1867年11月9日 江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に上奏し、翌15日に天皇がこれを勅許した(大政奉還

慶応3年12月 9日 1868年 1月3日 江戸幕府を廃絶し、新政府の樹立を宣言した(王政復古、雄藩5藩(薩摩藩、越前藩、尾張藩、土佐藩、安芸藩))。

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