冨田勲と勝、偉大な父子

centerlab_artistic[1]  慶應義塾大学先端生命科学研究所 (鶴岡)

冨田勲と勝、偉大な父子

>「クモの糸」を研究開発した
>慶應義塾大学先端生命科学研究所 鶴岡タウンキャンパス バイオラボ棟は、
>山形県鶴岡市大宝寺字日本国にある。
<カテゴリ;クモの糸>  http://tsujiandon41.blog.fc2.com/blog-category-36.html
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この先端生命科学研究所の所長冨田勝教授(55歳)は、作曲家冨田勲(81歳)のご子息である。

この研究所は2001年4月、鶴岡タウンキャンパス(山形県鶴岡市)に設置された本格的なバイオの研究所。冨田勝所長はその設立からかかわった。当研究所では、最先端のバイオテクノロジーを用いて生体や微生物の細胞活動を網羅的に計測・分析し、コンピュータで解析・シミュレーションして医療や食品発酵などの分野に応用している。本研究所はこのようにITを駆使した「統合システムバイオロジー」という新しい生命科学のパイオニアとして、世界中から注目されている。

冨田勝(とみた・まさる)
1957年東京生まれ。慶應義塾大学工学部数理工学科卒業、カーネギーメロン大学コンピュータ科学部大学院修了後、同大学准教授、同大学自動翻訳研究所副所長を務める。1990年より慶應義塾大学で教鞭を執り、後に同大学環境情報学部教授、同学部長を歴任。2001年より同大学先端生命科学研究所(LAB)(山形県鶴岡市)所長。Ph.D(情報科学)、工学博士(電気工学,京都大)、医学博士(分子生物学、慶応大)。


turuoka03.jpg  鶴岡公園 大宝館

冨田勝から父、冨田勲へ」 ~音楽家にはなれなかったけれど~ 、という文章を「文芸春秋2013年7月号334頁」に見開き2頁にわたり、書いておられる。

科学の道を歩むきっかけは、インベーダゲームの中身がどうなっているかに興味を持ったこと。コンピュータを独学で勉強し、自分でテレビゲームを作るようになり、ゲームを秋葉原のマイコンショップに売り小遣い稼ぎをした。その後、「人工知能」に興味を持ちアメリカに渡る。コンピュータが人間の知能にはかなわないことを痛感し、ヒトという生物の設計図が「ゲノム」に書かれていると知り、30歳を過ぎてから生物学を一から勉強し始めた。このようにトミタ(父、オーパ)のDNAを受け継ぎ、自分の興味をとことん追求して生きてきた。父への尊敬の念が伝わる文章だ。

冨田勲(とみた・いさお)
手塚治のアニメ音楽を手がけ、最近は「初音ミク」とのコラボ作品「イーハトーブ交響曲」が話題を呼ぶ。世界的作曲家、シンセサイザー奏者。日本における評価も高いが、世界での評価の方が高い。。


音楽(芸術)と科学の才能は共通であり、遺伝する。問題は才能の大きさなのだろう、努力も含めて。父の努力する姿を思い出し、自分も興味をとことん追求する努力をしてきた。という。

私のふるさとにこのような優れた人が優れた組織(研究所)をつくってくれたことに感謝せずにはいられない。
また、その偉大な父が、宮沢賢治を愛し、尊敬し、かかわりが深いことは、私には嬉しい限りである。
札幌生まれの「初音ミク」とのコラボもうれしい。


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カルボナード島越駅  イーハトーブ紀行5

DSC06564.jpg   駅名の由来 詩碑の左側部分 2013年6月18日撮影  (写真をクリックすると拡大され読みやすくなります)

カルボナード島越駅

三陸鉄道北リアス線は、明治以降でも大きな津波を3回経験した。そのため線路は山側のできるだけ高い位置に敷設されたが、それでも海に近い駅がいくつかあり、そのひとつが田野畑駅の南の島越(しまのこし)である。コンクリート高架上のホーム標高は13.5mであった。

島越駅は何もかも流されたが、駅前広場にある宮沢賢治の詩「発動機船 第二」の石碑だけが残された。昔の面影はなく、殺風景な中で急ピッチに工事を進める重機の音が「発動機船」の音に代わり鳴り響いていた。  

799px-Shimanokoshi-Station[1]   ありし日のカルボナード島越駅


発動機船 第二   宮沢賢治
   
   船長は一人の手下を従へて
   手を腰にあて
   たうたうたうたう尖ったくらいラッパを吹く
   さっき一点赤いあかりをふってゐた
   その崖上の望楼にむかひ
   さながら挑戦の姿勢をとって
   つゞけて鉛のラッパを吹き
   たうたうたうたう
   月のあかりに鳴らすのは
   スタンレーの探険隊に
   丘の上から演説した
   二人のコンゴー土人のやう
   崖には何かひばか竹かゞ
   凍えたやうにばしゃばしゃ生えて
   波は青じろい焔をあげて
   その崖裾の岩を噛み
   船のまはりも明るくて
   青じろい岩層も見えれば
   まっ黒な藻の群落も手にとるばかり

   いきなり崖のま下から
   一隻伝馬がすべってくる
   船長はぴたとラッパをとめ
   そこらの水はゆらゆらゆれて
   何かをかしな燐光を出し
   近づいて来る伝馬には
   木ぼりのやうな巨きな人が
   十人ちかく乗ってゐる
   ここまでわづか三十間を
   ひるもみんなで漕いだのだから
   夜もみんなで漕ぐのだとでも云ひさうに
   声をそろへて漕いでくる
   船長は手をそっちに出し
   うしろの部下はいつか二人になってゐる

   たちまち船は櫓をおさめ
   そこらの波をゆらゆら燃した
   たうたうこっちにつきあたる
   へさきの二人が両手を添へて
   鉛いろした樽を出す
   こっちは三人 それをかゝへて甲板にとり
   も一つそれをかゝえてとれば
   向ふの残りの九人の影は
   もうほんものの石彫のやう
   じっとうごかず座ってゐた
   どこを見るのかわからない
   船長は銀貨をわたし
   エンヂンはまたぽつぽつ云ふ
   沖はいちめんまっ白で
   シリウスの上では
   一つの氷雲がしづかに溶け
   水平線のま上では
   乱積雲の一むらが
   水の向ふのかなしみを
   わづかに甘く咀嚼する
 

※詩碑には紫色の部分、11行+6行、が省略されている。

1[1]
 「発動機船 第二」の詩碑

福島第一原発の汚染水漏れ 再記

20130821040jd[1]  大量の汚染水漏れが見つかった地上タンク 

福島第一原発の汚染水漏れ 再記

新聞やテレビなどの情報からは全体像が分かりにくい。私には記事を書いている記者が理解しているのか疑問でならない。論理的にまとめ問題点を鮮明にしたい。

問題点の第1は:
原子炉・燃料プールの安定冷却汚染水の拡散防止である。滞留水を浄化処理し、処理水を冷却注水用として再利用する循環注水冷却のシステムは施設外へ溢水させることなく安定的に運用する。この条件は満たされていると考えられていた。というより東電はそのように報告していた。


問題点の第2は:
溢水というより、循環冷却水へ地下水の流入が増加した。日量約400トンも流入し、それをタンクに貯蔵し、すでに1000トンタンクが350基になり、なお約2.5日に1基増加している。


問題点の第3は:これが最大の問題であるが、
汚染された地下水が海へ流入し、海を汚染している。これは福島県漁連の問題のみならず、国際問題であり、国辱である。

問題点の第4は:これこそ最大の問題点であるが、
原子炉・燃料プールは安定冷却されていると思いたい。ただし、メルトダウンした燃料がどのような状態でどの位置にあるか不明である。状態により、「核分裂反応」は継続し、冷却が不可能である可能性もなきにあらずだ。野田前首相の「福島原発の冷温停止宣言」(2011年12月16日)は全くのウソである。



風評被害:という言葉がマスコミで間違って使われている。根拠がない風評に使う言葉である。問題は根拠がある場合にも情緒的に使われていることである。

パッキンの寿命(耐用年数)5年、ボルト止め、レベル計なし;こんな貧弱な仕様のタンクで大丈夫なのか? 問題は大きいのだから、国費をつぎ込め。東電は企業として存続しているのがおかしい。資産凍結して解体せよ。

福島第i第一原発の汚染水漏れ

福島第一原発の汚染水漏れ、「レベル3」の可能性  
8月21日の新聞、テレビ報道より

福島第一原子力発電所の貯蔵タンクから汚染水約300トンが漏れた問題で、原子力規制委員会は21日、原発事故の国際評価尺度(INES)でレベル1(逸脱)と暫定評価していた今回のトラブルを「レベル3(重大な異常事象)に該当する」とし、評価が妥当か国際原子力機関(IAEA)に照会することを決めた。田中俊一委員長が「一刻の猶予もない状況が起こっている」と述べている。

汚染水漏れが起きたのは、原発事故後に4号機西側の高台に相次いで設置された組み立て式の鉄製タンク(直径12メートル、高さ11メートル)の一つで、容量は1000トン。同型タンク約350基の点検を急ぐ。なお、タンクは2日に1基の割合で増え続けている。

調査の結果、タンクのうち1基の水位が約3メートル低下していたことが判明、染水の漏えい量は約300トンと推計される。汚染水からは、ストロンチウムなどのベータ線を出す放射性物質が1リットル当たり8000万ベクレル、放射性セシウムが同14万6000ベクレル検出され、この濃度から全体の放出量は約24兆ベクレルと計算される。

タンク群は汚染水が漏れた場合に備えて、周囲にコンクリート製せきが設置されている。汚染水300トンの大半はこのせきの外側に流出したとみられる。外側には19日までに、せきにたまった雨水を抜く弁から表面の放射線量が毎時約100ミリシーベルトの汚染水約120リットルが漏れていたと報道されていた。


コメント
管理しやすい地上タンクでこの失態。難問の地下水系統がどうなるのか心配だ。
すでに国辱を上塗りしている。もはや東電の問題ではない。非常事態だ。日本が沈没しないように祈る。


カンパネルラ田野畑駅 イーハトーブ紀行4

田野畑
                                               カンパネルラ田野畑駅
田野畑  2013年6月18日

田野畑

作家「吉村昭」が愛した「田野畑村
銀河鉄道」の「カンパネルラ田野畑駅
孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする。
訪れたいと思っていた場所である。


三陸鉄道北リアス線宮古~小本間、田野畑久慈間で平常通り運行していた。
唯一残る島越駅付近は、海岸に近いため、津波の爪痕が生なましく、
2014年4月の復旧を目指し、流出した高架橋の代わりに築堤工事を急いでいた。


田野畑  カンパネルラに因み「鉄道ダンシ」

田野畑

超巨大地震のスーパーサイクル

平川一臣

平川一臣北大特任教授による
超巨大地震
(マグニチュード(M)9クラス)のスーパーサイクル


1611年(400年前、慶長16年)の地震津波は、
これまでは「慶長三陸沖地震」とされていたが、平川教授が「根室沖~襟裳岬」の地震津波であることをつきとめた。
北海道大学特任教授の平川一臣は、17世紀初頭の津波堆積物が色丹島や道東、道南(北海道森町)、三陸北部、三陸南部と約1500kmの範囲に及ぶことから、慶長三陸地震は、従来の震源推定地であった三陸沖北部よりも北の、北海道東沖から北方領土沖の千島海溝付近で最初に発生した地殻変動が周辺の震源域と連動して発展した超巨大地震である可能性が高いと推定している。さらに平川が専門誌「科学」(2012年1月26日発行)に発表した説によると、15~20mの津波が到達したと考えられることから、慶長三陸地震は千島海溝沿いにおけるM9規模の地震の可能性が高いと推定している。


上の表を2011年を基準に何年前であるかで表示すると、◎と○印は
根室沖~襟裳岬:3500年前→2500年前→400年前

下北沖~陸中沖:3000年前→2000年前→800~900年前→次は? 
約1000年サイクルとするとこの地域は超巨大地震が起こるサイクルに入っているか間もなく(100~200年で)入る。すなわち、下北─陸中沖では巨大地震が発生する切迫度が極めて大きい。 <コメント:これに対応する空白域が問題になる。>


陸中~常磐沖:3500年前→2500年前→1142年前→0(2011年) 


 
平川教授の調査・研究手法
第四紀層が調査対象である。第四紀層は比較的柔らかい
地形、露頭などの観察・調査をもとに調査地点を決める。
①露頭の表面を削るなどして直接観察する。
②斜面、段丘崖などをスコップなどで削り、地層のフレッシュ面を露出させる。又は地面にピット(穴)を掘るなどして、津波堆積層を観察する。
③ボーリング
などにより地層を調べ、津波が運んだ砂や石(津波堆積層)を調べ、津波の規模、年代を測定する。
広域の数百カ所に及ぶ地点の膨大なデータを蓄積し、詳細に系統的に比較し総合的に評価する。

架空のデータを用いたコンピュータシミュレーションなど一見派手な研究は役に立たない所か足を引っ張っている。
非常に地道であるが、この現地調査の手法によるによるデータの蓄積こそが重要である。シミュレーション(モデル(数値計算))を併用している。


前報<http://tsujiandon41.blog.fc2.com/blog-category-40.html>で平川教授は、
><北海道>の津波検討で,最も重要なことは,世界中でこれほど数多くの地点でこれほど正確な津波堆積物,過去数千年におよぶ津波履歴が調査され,それを説明できるモデル(数値計算)を考えた例は,どこにもない,ということなのです。と言っている。<コメント;その通りです>


今、地震予知にとって重要なことは、この手法による調査を北海道と同等の精度で全国的に行うことであろう。

子供たちの防災教育と科学技術教育にこれほど適したテーマ設定と科学技術的手法はないであろう。
自然との対話、機材に頼らない科学技術へのアプローチ手法、根気、総合性、・・・・など


※坪井忠二(地球物理学)は、地震の規模は、「断層の長さ約200km、マグニチュード8.2を超えない」としている。超巨大地震は、この規模の地震の連鎖・連動と考えられている。

四万十市江川崎 国内史上最高41℃

四万十川 沈下橋  四万十川 沈下橋

四万十市西土佐江川崎 国内史上最高41℃

1位 41.0℃ 四万十市江川崎  平成25年8月12日 (2013年)
2位 40.9℃ 埼玉県熊谷市   平成19年8月16日 (2007年)
2位 40.9℃ 岐阜県多治見市         同上
4位 40.8℃ 山形県山形市   昭和8年 7月25日 (1933年)
5位 40.7℃ 山梨県甲府市   平成25年8月10日 (2013年)


とりあえずメモ。書きなおしがないことを祈る。

小泉今日子 

小泉今日子 こまつ座主演     『頭痛肩こり樋口一葉』に出演の女優6人
(下段中央から時計回りに)小泉今日子、三田和代、深谷美歩、若村麻由美、愛華みれ、熊谷真実


小泉今日子  「あまちゃん」の母「天野春子」

小泉今日子主演で 井上ひさし作 『頭痛肩こり樋口一葉』が、こまつ座第100回記念公演として、紀伊國屋サザンシアターにて上演され8月11日最終日を迎えるという(7月11日初日)。こまつ座(井上ひさし脚本)の代表的な演目である。

この後、  8月17,18日;西宮、  8月20,21日;金沢、  
8月25日;山形県川西町(旧小松町;井上ひさしの出身地)   8月27日;仙台  で上演される。

配役:
小泉今日子;貧困のどん底から筆一つで「たけくらべ」などの名作を残した樋口一葉を演じる。
○三田和代;一葉の母・多喜、 ○深谷美歩;一葉を支える妹・邦子、 ○愛華みれ;旗本のお姫様に生まれながら時代に翻弄される稲葉鑛、 ○熊谷真実;玉の輿から女郎に転落する八重。 
若村麻由美;幽界(あのよ)と明界(このよ)を行き来して夏子と心を通わせる幽霊・花螢役;「一度は演じてみたかった、あこがれの役です」と意気込む。  この女優6人が全出演者である。


2013_higuthi_img1-thumb-262xauto-82[1]  いつものレトロなポスター

「井上ひさし」と「宮藤官九郎」の比較論をやってきたが、「小泉今日子」が両者の脚本を同時に演じていることを知ったのは最近のこと、感慨深い。「あまちゃん」で「アキ」の母「春子」役は宮藤官九郎の指定(というかお願いというか)らしいが、井上ひさしの脚本を、それも「こまつ座100回記念公演」で主演しているのだから、演技者として小泉今日子の評価は高いのであろう。

小泉今日子の印象深い役は、「踊る大捜査線」の「日向真奈美・猟奇殺人犯」役である。あの「何てたってアイドル」がこのド迫力な役・演技をやるのだから凄いと思った。宮藤官九郎の脚本には「何てたってアイドル」から「日向真奈美」までの振れ幅が大きい役柄を意識しているふしがある。

太巻との闘い、影武者をやらせた連中に対する復讐劇、今日(8月10日)の家出したユイの母(八木亜希子)に対する演技などは「日向真奈美」役をほうふつとさせるような迫力がある。「クドカン」はそれを意識して脚本を書いていると思われる。あまちゃんの母「春子」役は小泉今日子にとって代表的な名作・名演になるであろう。

能年玲奈」はデビューで名作に会い、名演を続けている。
若くしての名作・名演は、蒼井優「フラガール」に匹敵する。


「宮藤官九郎」は「吉里吉里善兵衛」である

宮藤官九郎   宮藤官九郎  in NHK

「宮藤官九郎」は「吉里吉里善兵衛」である

「宮藤官九郎」は吉里吉里国」の「刺客」である。
任務は「吉里吉里語」を流行らせ、「日本国国語」に侵入し、「吉里吉里語」の「橋頭堡」を築くこと。


小説「吉里吉里人」では「一揆・反乱」を起こしたが、翌日には制圧され失敗に終わった。
「三日天下」どころかその半分の「一日半天下」に過ぎなかった。


実は「吉里吉里国」にはまだ「隠し金」「埋蔵金」が残っている。考えても見たまえ。全ての金を便所の「金隠し」として隠す愚を犯す筈がないではないか。「吉里吉里国」にはまだかなり潤沢な軍資金が残っているのだ。何しろこの国は「金が成る」地を所領しているのだから。

そこで「吉里吉里善兵衛」(きりきり ぜんべえ)は一揆・反乱「戦略」を変え、日本国に深く静かに潜行し、長期間にわたり文化的に大きな影響を及ぼし、日本文化を侵食し、歪んだ「日本文化」を「吉里吉里文化」で矯正し、「日・吉里吉里の共存繁栄」を謀ることにした。 

1964年、「吉里吉里善兵衛」は何十年ぶりかで目を覚まし、NHKラジオ小劇場で『吉里吉里独立す』を「日本国」に放ったが、直ぐにまた居眠りに入った。
しかし、1973年には覚醒し、1980年までの間、小説「吉里吉里人」を「日本国」で連載し、1981年に出版した。


実はそのとき「吉里吉里善兵衛」は、次に打つ手を模索していた。
1975年、「地元」のさる文房具屋に5歳になる男の子がいるのを見つけた。この子なら、日本語、吉里吉里語、ズ―ズ―弁、外来語、流行語を駆使し、小説、脚本、テレビ、舞台、演劇、音楽、などあらゆる分野に侵入する能力を持つ万能な「刺客」になると狙いをつけ、密かに「吉里吉里善兵衛」の名を継がせることを決意した。

「吉里吉里国」から放たれた「刺客」は、自分が「吉里吉里国」の「刺客」であることを知らない。いや、彼は「刺客」というより、何代か代を重ねた「吉里吉里善兵衛」その人らしいのだが,それも知らない。

井上ひさし」がそうであったように「宮藤官九郎」も自分が「吉里吉里国」の「刺客」、いや「吉里吉里善兵衛」その人であることを知らない。

太陽光発電  イーハトーブ紀行3

太陽光発電 284号線     太陽光発電設備  国道284号線沿い  2013年6月24日撮影

太陽光発電

国道284号線(一関~気仙沼)沿いに太陽光発電設備が設置されていた。岩手県は土地も安いしと納得する。

2013年4月から太陽光発電の売電価格が一応値下げされた。
2012年度まで、一律42円だったが、10kW未満の家庭用は1kWhあたり38円に、メガソーラーなどを含む10kW以上の事業用は37.8円に引き下げられた。10kW以上は20年間固定(10kW未満は10年間)。


現在、ドイツでは1kWhあたり13.5ユーロセント(16.2円)、イタリアでは14.8ユーロセント(17.8円)(ユーロセント/円=1.2として)だという。

日本の太陽光発電の売電価格は高すぎる。それも20年(10kW以下は10年)固定であるから異常に高いとさえいえる。ドイツでは初期の売電価格を値下げするのに苦労したと聞くが、実に投資側に異常に有利な条件に設定したものだと思う。著しくバランスを欠いていることに問題があるのだ。

投資側の意欲は旺盛であるが、電力側の受け入れが整わず、実態は進んでいないという。進まないことに文句を言うより、ホッとする感じもある。


日本の太陽光発電の技術開発は早かったが伸び悩んだ。電力会社と官僚組織がグルになって優遇策をこうじなかったというより冷遇しためである。再生エネルギーとのバランスを重視するより、原子力に肩入れし重要視する余り、政策を誤ったのである。

だから、太陽光発電メーカーはプラント輸出に頼るしかなかった。そして、欧州はもちろん中国でさえこの間に生産能力を増強した。ここに国の政策の誤りがある。

この反省は絶対に必要である。折角の産業の芽を潰した上に、原発事故を起こし、あわてて採用する。だから、異常に高い売電価格にならざるを得なかった。

このような政策を誤った背景には循環エネルギー無視という油断があるし、その油断あるいは自惚れは原発事故を起こした原因と共通なものである。

戊辰戦争と庄内藩

DSC00157.jpg             庄内の風景 鶴岡市の赤川土手から望む月山

戊辰戦争と庄内藩

八重の桜』で会津を攻める新政府軍に『大山厳(弥助)』と『板垣退助』の名はあるが、『西郷隆盛』はいない。同時進行で「庄内藩」を攻めていたからだ。ドラマとして『西郷』の出番が欲しい、と言う訳か、「庄内 新政府軍 薩摩藩陣所」が映し出され、西郷「会津はまだ落ちんか」「我らも田舎侍じゃぞ」「新しかこん国ん為に」などとのたまう。

 昭和7(1932)年86歳まで波乱万丈に生きた「八重」の生涯を描くのだから、庄内戦線はこんなものなんだろう。そこで新政府軍と庄内の戦いについて以下に述べる。

 
庄内藩は、元治元年(1864年)江戸市中警護の功により2万7千石を加増され石高は16万7千石となった。薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃した為、慶応3年(1868年1月19日)砲火により江戸薩摩藩邸を焼討した。薩摩藩は徳川側と交戦する大義名分を欲して放火や、掠奪・暴行など蛮行を繰り返したが、庄内藩がそれにのってしまったのである。この事件が明治政府軍による徳川家武力討伐のきっかけとなり戊辰戦争のトリガ-(引き金)となった。

1868年、会津藩と庄内藩の謝罪嘆願を目的とした奥羽越列藩同盟が結成された。同盟の主旨から、会津、庄内両藩は加盟していない訳であるが、会津藩と庄内藩との間に会庄同盟が締結された。

庄内藩は、戊辰戦争で明治政府に与した新庄藩、秋田藩領内へ侵攻。当時日本一の大地主と言われ庄内藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入。清川口に攻め入る明治政府軍を撃退。その後、新庄を落とし、内陸と沿岸から秋田へ攻め入った庄内軍は中老酒井玄蕃率いる二番大隊を中心に連戦連勝、明治政府軍を圧倒した。内陸では横手城を陥落させた後さらに北進、久保田城へ迫ったが、戦線は刈羽野付近で膠着状態となった。

列藩同盟の一角である米沢藩が降伏したため、藩首脳部は撤兵を決断、さらに会津藩も降伏し、庄内藩以外のすべての藩が恭順した。明治元年9月26日(1868年11月10日)、会津藩降参の2日後、庄内藩も恭順した。恭順したものの庄内藩は最後まで自領に新政府軍の侵入を許さなかった

12月に領地没収。11代・忠篤は謹慎処分となったが、弟・忠宝が12万石に減封の上、陸奥国会津藩へ、翌明治2年(1869年)6月には磐城平藩へと転封を繰り返した。本間家を中心に藩上士・商人・地主などが明治政府に30万両(当初は70万両の予定だったが揃わず減額が認められた)を献金し、明治3年(1870年)酒井氏は庄内藩へ復帰した。

共に列藩同盟の盟主であった会津藩が解体と流刑となったのとは逆に、庄内藩は比較的軽い処分で済んだ。これには明治政府軍でも薩摩藩の西郷隆盛の意向があったと言われ、この後に庄内地方では西郷隆盛が敬愛され、明治初期に薩摩藩へ留学生を出すまでに至っている。明治2年9月29日、藩名は大泉藩と改称された。同年、胆振国虻田郡を領有している。

明治4年(1871年)廃藩置県により大泉県となる。後、酒田県や鶴岡県への改名を経て、1876年8月21日に山形県に編入された。
 
尚、酒井氏は明治17年(1884年)伯爵となり華族に列している。


<追記>
映画「たそがれ清兵衛」 (藤沢周平原作、山田洋次監督)で、「清兵衛」は戊辰戦争で流れ弾にあたって亡くなる設定になっている。その舞台海坂藩とは庄内藩のことである。
但し、原作である三つの短編「たそがれ清兵衛」、「竹光始末」、「祝い人助八」にそのような記述はない。


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 辻 幸弥 (つじこうや)

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