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ウインストン・チャーチルによる好戦的策謀

     「歴史のファクト」「歴史修正主義」および「コミンテルンの策謀」など  
         その2 ウインストン・チャーチルによる好戦的策謀

        2016040600012_1[1] (2) チャーチル

チャーチルレトリック(文章、演説)の天才である。
チャーチル自伝は高校時代、英語の教科書にあった。チャーチルは文章の天才だから、私は「ガリア戦記」で知られるシーザーと同質な天才的英雄だと思っていた。日本にはチャーチルファンが多いからアマゾンの書籍一覧にもこの自伝は凄いとの書評がある。確かに、レトリック力に優れたチャーチルの史書は面白い読み物であるが、彼の演説、文章は国家を、世界を誤った方向に動かした。
チャーチルの著作「The Second World War Ⅱ(第二次世界大戦回顧録)」が直接的なノーベル文学賞受賞の理由となったらしい。
「チャーチルの名言集」なども有名である。

日本国内にもチャーチルを賛美する著書が多い。
ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男 (角川文庫)
チャーチル 不屈のリーダーシップ
危機の指導者チャーチル (新潮選書)冨田 浩司 などなど枚挙にいとまがない。


ハーバート・フーバー米元大統領によると、以上は、従来通りの歴史観「釈明史観主義(釈明(apology))」の歴史観による評価である。
しかし、最近のファクト(事実)重視の「歴史修正主義」によるチャーチルの実像、評価は違っている。以下にそれを解明する。



歴史を簡潔に振り返る。

第一次世界大戦
1914年にオーストリア皇太子がサラエボで暗殺されたことがきっかけで起こった。
オーストリアードイツ連合とロシアーフランス連合の間に戦争が起こる。
初期にイギリス外相エドワード・グレイによる和平仲介がなされた。すなわちイギリスは傍観者であった。
 
ドイツがフランス攻撃のためベルギー通過を求めたがベルギーは拒否。ドイツはベルギーに侵攻した。
イギリスはベルギーの中立保障条約を根拠に対独宣戦布告した。すなわち、小国ベルギーがドイツの通過を拒否したのは、イギリスへの小国らしい甘えがあったためと言われている。

イギリスのハーバート・アスキス政権は非干渉の立場をとる勢力が主流だったが、70年以上前の古びた条約を根拠に対独戦争を強硬に主張したのが若きチャーチル(40歳、海軍大臣)で、ロイド・ジョージ蔵相も同調した。閣議により参戦が決まると内閣は瓦解しそうになるが、それを防いだのはチャーチルのレトリック力ある演説・弁舌であった。イギリスの世界覇権維持強化のための戦いであった。
アスキス首相はチャーチルの好戦的性格に驚いた。

イギリスのドイツの非人間的な非道・残虐行為に対するプロパガンダは国内、海外に対し徹底していた。
アメリカはイギリスに武器輸出をしたが、隠蔽のため客船も使った。ドイツはそれを防ぐためアメリカの客船を攻撃した(その客船が武器を積んでいたことは戦後に解明されている。)。それを機にアメリカも参戦し、世界大戦の様相を呈した。アメリカはイギリスの軍需工場と化し未曽有の繁栄を謳歌した。


第一次世界大戦はドイツの敗戦に終わり、ヴェルサイユ条約が結ばれたが、敗戦国ドイツにとって屈辱的で非現実的な賠償請求がなされた。いわゆるヴェルサイユ体制という敗戦国ドイツにとって不正義な地獄の条約は、やがて「ヒトラー」の出現」の原因となり、第二次世界大戦の原因を萌芽させることになる。


1929年、保守党の選挙敗戦(スタンリー・ボールドウイン内閣)を受けてチャーチルは大蔵大臣の座を降り、作家に専念した。アメリカ事情の視察に行き、政治家、財界の進めるままにギャンブラーチャーチルは株を買ったが、ニューヨーク株式市場の暗黒の木曜日(1929.10.24)に遭遇し、大きな借金を負った。

1935年イギリスの総選挙でボールドウインが首相の座に帰り咲いたが、チャーチルに入閣の声はかからなかった。チャーチルはベルサイユ体制固定化の旧態依然の思想でその不正義に鈍感であった。また、肌の色の違いによる強い人種差別主義者であった。
閣内に入れないことでチャーチルは存分に政府批判を始めた。ヒトラードイツに対しその反ユダヤ政策は好都合であったが、現在の視点のユダヤに対する「ホロコースト」はまだ起こっていない時代の話であることは注意すべきである。チャーチルはレトリックを駆使し、雑誌などを動員して徹底的にヒトラードイツを批判した。


1937年同じく保守党のチェンバレン内閣に代わったがチャーチルは同様に閣外であった。ヒトラーが東進したければ東進させスターリンと戦わせるというのがイギリスの基本的考えで方であったが、それを引き留めたのは小国ポーランドに対するチェンバレンの方針転換とそれに追随するフランス外交であった(ダンツィヒ・ポーランド回廊問題)。それはポーランドという小国の安全保障であることは第一次世界大戦におけるベルギーの立ち位置に似ている。すなわち、小国のわがままが世界の方向を誤らせた。ポーランドに関する英仏のこの誤りがなければ、カチンの森におけるポーランド将校1万2000人のソ連による殺戮も、第二次世界対戦も起こらなかったであろう。

チャーチルの巧みなレトリックによるイギリスの世論操作も影響した。
1939年9月4日、チェンバレンは万策尽き遂にドイツに宣戦布告し、数日前無任所大臣にしたチャーチルを海軍大臣に任命した。
1940年チャーチルは首相に着任し、1941年12月日本が真珠湾攻撃したとき、同じく好戦的なアメリカのルーズベルト大統領と電話会談し快哉の祝杯を挙げた。アメリカはルーズベルト大統領の意に反しヨーロッパの戦争には加担しないという世論が80%を超え圧倒的だったが、真珠湾攻撃は世論を動かしアメリカは太平洋戦線とヨーロッパ戦線に参入した。

<まとめ>
日本の東条内閣も馬鹿であるが、チャーチルとルーズベルト(FDR)という好戦的な指導者の存在は世界と日本にとって不幸であった。
チャーチルとルーズベルトが共産主義の脅威に鈍感でスターリンを味方に引き入れたのは歴史的皮肉である。東進するヒットラーとスターリンを戦わせるのが歴史的な必然であるという見方は当時でも常識的な見方であったのだから。
チャーチルもフランクリン・ルーズベルト(FDR)も愚かな指導者であった。もちろん日本の東条英機も軍部もだが。


戦争を始めるのは誰か  (これが本稿で参考にした著書名である。渡辺惣樹著:前稿参照)
チャーチル第一次世界大戦と第二次世界大戦を始めた人類にとっての大犯罪者である。
ヒトラーも彼の手のひらで踊らされたに過ぎない。

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「歴史のファクト」「歴史修正主義」および「コミンテルンの策謀」など 序論

「歴史のファクト」「歴史修正主義」および「コミンテルンの策謀」など
                     序論 


最近読んだ以下の数冊の著書、雑誌記事などから考えたことを述べる。

保坂正康著;昭和の怪物 七つの謎、2018.6.20、講談社現代新書、税別880円

渡辺惣樹著;第二次世界大戦 アメリカの敗北、2018.6.20、文春新書、税別1,100円
        ;戦争を始めるのは誰か 歴史修正主義の真実、2017.1.20、文春新書、税別1,100円
渡辺惣樹訳・解説、ジェフェリー・レコード著;アメリカはいかにして日本を追い詰めたか、2017.2.8、
        草思社文庫、税別900円

中西輝政(京大名誉教授)-長谷川煕(元朝日新聞記者)対談>;国際共産主義に操られる朝日新聞
        月間WiLL、2018年、10月号、pp240~253、税込840円     など



概説
ロシア革命は1917年に起こったが、アメリカはルーズベルト(FDR(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)、第32代大統領(1933年 - 1945年、民主党))の時代までソ連を国家として認めなかった。国家としてはじめて認めたFDRの時代、アメリカ中枢部はコミンテルンのスパイに支配され、日米戦争(太平洋戦争)の原因になったハルノートを起草したハリー・ホワイトもコミンテルンのスパイであった。

一方、盧溝橋事件(1937年(昭和12年)7月7日)で日本はズルズル日華事変(日中戦争)に引き込まれたが、それはコミンテルンのスパイの直接関与、日本メディア(朝日新聞など)、軍人、政治家など「コミンテルンのテーゼ」に支配された者たちによる誤った情報操作、政治判断があったからである。

東条英機はコミンテルンの支配から逃れられない程度が低い(馬鹿な)指導者で、戦後、中曽根内閣でも活躍した瀬島龍三(元陸軍参謀)は晩年までコミンテルンのスパイであった。「石原莞爾」は一環として社会主義を研究したがそれに支配されなかったのは「東亜連盟思想」「世界最終戦争論」など確固たる「思想」「哲学」に裏打ちされていたからである。

そして、現在も、共産主義、コミンテルンテーゼの思想に支配されている日本のメディア、知識人、政治家は多い。

これらが明らかになってきたのは、1995年、米国情報公開法に基づき「ヴェノナ」と呼ばれる機密文書が公開されて以来である。
日本でも「歴史のファクト」に基づく歴史が盛んに研究され「歴史修正主義」が貶(おとし)められることなく、「コミンテルンの策謀」から解放されることを切望する。
多くの日本人にこれらの著書、記事が読まれ、ファクト(事実)に基づく正しい歴史を理解されることを望んでいる。


        isihara_g_05[1] (2) 石原莞爾

その1 
保坂正康著;昭和の怪物 七つの謎、講談社現代新書
 帯;昭和史研究の第一人者が出会った「戦争の目撃者たち」、東条英機、石原莞爾、犬養毅、渡辺和子、瀬島龍三、吉田茂が残した「歴史の闇」に迫る。

本屋で平積みされているから良く読まれている本であると思われる。
私は「石原莞爾」に関する本であればその殆どを買って読む。この本を手にして、全七章のうち「石原莞爾」だけに二章が割り当てられているので即座に購入した。 

「石原莞爾」は私の郷里・高校の先輩である。厳密には学制の変化とともに、石原が仙台陸軍幼年学校に入学する前一年間だけ在学した「庄内中学」は、「鶴岡中学」、「鶴岡高校」、「鶴岡南高校」と変遷した。私が卒業したのは最後の名前の時代である。

大学2年目の夏休みに遅れて授業料を払いに行ったとき、クラーク像に近い古めかしい木造事務棟(今は記念館)の窓口に女子事務員はおらず、留守居の事務長自らが事務処理するからと事務室に入るように促された。「君は鶴岡出身か?石原莞爾将軍を知っているか?偉い人だった。」などと何時間か話が止まらない。それは石原莞爾のファン、崇拝(敬)者が多いことを実感した初めての経験であった。

これを契機に石原莞爾に関する著書を多数読んだ。仙台にいたとき高木清寿著「東亜の父 石原莞爾」(1985/11刊)を購入し読んだとき、著者が近いところに住んでいることが分かり(著書による)、訪ねて行ったことがあった。午後何時間かお邪魔したがそのとき記憶に残った言葉は「あの世で会うとき世の中がどのように変遷したか、詳しく知らせてほしい」というのが石原莞爾の高木氏への遺言であったという。石原莞爾「予言の書」ともいえる「世界最終戦論」の行方を確かめたかったのだろう。

「昭和の怪物 七つの謎」の石原莞爾に関する多くは高木清寿氏への取材によるものだと著者保坂正康氏は語っている。高木氏は1999年まで生きたから、私がお邪魔したときとそうは違わない時期に保坂氏が取材に訪れたことになると思うとこの著書への思いが深くなることを実感する。


参考 クリック→盧溝橋事件  
本ブログ2015年7月27日 「盧溝橋事件に関する中国共産党幹部の発言」に石原莞爾少将(49歳、参謀本部第一部長)の不拡大方針について述べた。


続く

盧溝橋事件に関する中国共産党幹部の発言

img_1[1] 東篠英機と石原莞爾 犬猿の仲? 

盧溝橋事件
に関する中国共産党幹部の発言

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日、北京西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民党軍(第二十九軍)との衝突事件である。中国では七七事変と呼ばれる。
この事件は日中戦争(支那事変)の直接の導火線となった。
これに関し、中国共産党の幹部は以下のように語っている。

周恩来
1949年10月1日、「中華人民共和国」成立の日に周恩来首相が、「あの時(廬溝橋事件の際)、我々の軍隊が、日本軍・国民党軍双方に、発砲し、日中両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、共産党に今日の栄光をもたらしたのだ」と発言したと伝えられている。


劉少奇
周恩来の発言の裏付け:「中国人民解放軍総政治部発行/戦士政治読本」に以下の記述がある。
「七・七事変(盧溝橋事件)は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が、決死的行動を以て党中央の指令を実行したものである。これによって、わが党を滅亡させようとして第六次反共戦を準備していた蒋介石南京反動政府は、世界有数の精強を誇る日本陸軍と戦わざるを得なくなった。その結果滅亡したのは中国共産党ではなく、蒋介石南京政府と日本帝国主義であった。」


毛沢東主席
毛沢東も、「日本の皇軍なしには、我々が権力を奪取することは不可能だった」と発言していた。
このように、40年くらい前まで、支那共産党の連中は、「盧溝橋事件とそれに続く日支全面戦争は、自分たちが起こした」と堂々と公言していたのだ。

日本社会党佐々木更三、黒田寿男、細迫兼光らを接見した際の談話 (1964年(昭和39年)7月10日)
佐々木――今日、毛主席の非常に寛大なお気持ちのお話しをうかがいました。過去において、日本軍国主義が中国を侵略し、みなさんに多大の損害をもたらしました。われはれはみな、非常に申し訳なく思っております。
主席――何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。みなさんの皇軍なしには、われわれが権力を奪取することは不可能だったのです。この点で、私とみなさんは、意見を異にしており、われわれ両者の間には矛盾がありますね。

(皆が笑い、会場がにぎやかになる)。
佐々木――ありがとうございます。
主席――過去のああいうことは話さないようにしましょう。過去のああいうことは、よい事であり、われわれの助けになったとも言えるのです。ごらんなさい。中国人民は権力を奪取しました。同時に、みなさんの独占資本と軍国主義はわれわれをも〔日本側の記録では、「みなさんをも」となっており、文脈からはその方が適切と思われる〕助けたのです。日本人民が、何百万も、何千万も目覚めたではありませんか。中国で戦った1部の将軍をも含めて、彼らは今では、われわれの友人に変わっています。

東京大学近代中国史研究会訳『毛沢東思想万歳』、下巻

鄧小平
日本側が「先の戦争では申し訳なかった」といった内容のことを述べると、鄧小平は発言をさえぎるようにして「われわれは日本軍をそんなに悪く思っていませんよ」と切り出した。あっけにとられた一行を前にした鄧小平の説明はこうだった。

「あの戦争が始まる前、われわれは井崗山(せいこうざん)から、長征の途についた。延安にたどりついたときは気息奄々、靴もちびはて、人数も2万人に減って、全滅寸前でした。ところが日中戦争が始まり、われわれを包囲していた蒋介石軍は日本軍によって次第に南部に押されていく。袋のネズミだったわれわれはそれで息を付くことになり、日本軍の後ろに回って、着々と工作をしていった。そして戦争終結時には数百万の正規軍を擁する軍事勢力にのし上がった」

日中戦争のおかげで全滅を免れた中国共産党-鄧小平語録 1998年06月06日(土) 伴 正一



石原莞爾少将の方針
49歳、参謀本部第一部長。盧溝橋事件は不拡大、事件を大きくしないという方針を打ち出した。
すなわち、日本は満州国の経営に専念し、ソ連の脅威に対抗する力をつけるべきだとした。


杉山元陸軍大臣、武藤章参謀本部作戦課長、など
強硬意見を持つ人々が、中国へ増援部隊を派兵すべきだという意見を強く打ち出した。



<コメント>
陸軍の馬鹿どもが、情勢を見誤り、中国共産党の術中にはまり、アジアを共産化するお手伝いをする羽目になった。石原莞爾は大局を見ていたのだが。悔やまれる。

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 辻 幸弥 (つじこうや)

Author: 辻 幸弥 (つじこうや)
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