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大祓 (おおはらえ)  半年間の厄災を祓う行事

大祓 (おおはらえ)  半年間の厄災を祓う行事
神社では1年の終わりである大晦日と、1年の半分が終わる6月末日の2度、大祓という行事をおこなう。

6月末日に行われるのが「夏越の大祓(なごしのおおはらえ)」で「茅の輪くぐり」が主な儀式の形式です。
郷里の「椙尾神社(すぎのおじんじゃ)」では山越えして「御神輿」を運び日本海で清める儀式が行われます。 
大祓の儀式により、厄払いをして、清浄で清々しい7月1日を迎えます。


安本美典説
安本美典氏によると『欠史』とされる時代(第1代神武天皇〜21代雄略天皇)は、新月~満月で1か月、満月~新月で1か月、すなわち、1か月は陰暦の半分の日数(14~15日)であった。
参照 → 本章末のクリックをクリック  http://tsujiandon41.blog.fc2.com/blog-entry-291.html
だから、1年12か月の期間も現在の半年に相当する。

安本説が成立する主な根拠は、①『記紀』に記されている『欠史』の時代の天皇の寿命が、神武天皇=137歳、孝安天皇=123歳、崇神天王=168歳など、あり得ない高齢であったこと。半分にすると現実的な年齢になる。②天皇が例外なく月の15日以前に亡くなっていること。などである。


大祓 は、『欠史』の時代に毎年大晦日に行われた儀式がそのまま継続したものであろう。それ故、神社の行事として、現在の大晦日と6月末日の大祓は同格であったと思われる。また、7月1日も『欠史』の時代には元旦であった。 

   tides[1] (2)
        満月             地球            新月                    太陽
            満月と新月のとき、月と太陽の潮汐作用が一致し、潮汐作用は最大となる

欠史の時代に、なぜ今の半月を1か月としたのであろうか。
半月で1周期である自然現象に潮汐作用がある。その周期は、新月~満月、満月~新月、の周期と一致する。上の図を参照
貝塚に見られるように、海は食料を得る重要な場所で、磯漁の体験から潮汐作用の周期はよく理解されていた。だから、欠史の時代、倭人は月の満ち欠けの周期より、潮汐作用の周期を感覚的、体感的に重視したのであろう。

郷里の「椙尾神社」の「御神輿」を日本海の磯で清める大祓の儀式も理解できる。


7月1日 は,欠史時代の元旦に相当する。だから、去る7月1日は令和の最初の元旦と見なし得る。
7月1日が誕生日の私は清々しい気分で運転免許証の書き換えを行った。
安全・無事故無違反を期している。


安本説参照クリック
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皇位継承 1

皇位継承 1
『皇位継承者は男系でなければならない』
神武天皇から126代今上天皇まで皇統は例外なく男系により継がれてきた。
そのうち女性天皇は8人10代在位したがすべて男系であった。
 

女性宮家 
女系は皇室、天皇家ではなく婚姻相手の男性の血統に代わることを意味する。
例えば、真子様と小室圭の間の子供は女系で皇室ではなく小室家に属する。それ故、真子様は皇室に所属し得ても、小室圭とその子孫は皇族にはなりえない。

一般参賀で小室圭殿下(?)が長和殿のベランダから手を振る光景は悪夢でしかなく、女性天皇と婚姻関係にある一般男性の敬称を「陛下」と称するのも衝撃的で違和感がある。
だから、女性宮家は皇統・天皇制を継続するための制度にはなりえない。

女性宮家を提案、支持している政治家、マスコミは、いわゆる『リベラル派』『共産主義者』で、皇統の繁栄ではなく皇統の断絶を狙っているとしか思えない。夢々だまされることなかれ。

イギリスの例ヴィクトリア女王がなくなり、長男のエドワード七世が王位に着いたとき、女王の夫君のドイツの実家の名にちなみ王統は『サクス=コバーグ=ゴータ家』に代わった。イギリスでも男系を意識している。第一次世界大戦で英独が敵国として戦ったときそれをさらに『ウィンザー家』に代えた。二重に男系を意識していることになる。 英国の例から、もし真子様と小室圭の子孫が皇位に着いたとき天皇家(姓を持たない)から小室家(小室王朝)に皇位が移ることになる。それでいいのか?


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          信任状捧呈式のため皇居に向かう新任大使または公使を乗せた偽装馬車

旧宮家
現在、男系男子の皇位継承者は3名しかおらず、女性宮家創設を認めざるを得ないという議論がなされている。

不思議なことにGHQにより昭和22年に『皇籍離脱』させられた宮家の情報は封印されたままで聴こえてこなかった。しかし、最近、『水間政憲氏』の著書で明らかにされたことによると、七宮家十家族に『男系男子』が多数いる。
例えば、明治天皇の孫である東久邇宮盛厚王(母は明治天皇皇女聡子内親王(泰宮))に上皇(平成天皇)の姉である照宮さま(茂子内親王)が嫁いだという非常に皇室の血が濃い旧宮家に男系男子が5名もいるという。


「宮家」、「旧宮家」と「皇別摂家」を合わせれば120名もの男系男子がいらっしゃるという。 
因みにイギリス王室は百何十位まで王位継承権が与えられ、中には巷間の一般サラリーマンなどもいるという。王制を維持し国体を守るために他ならない。日本にも『宮家』を名乗らないそういう存在があってもよい。


「『世俗に染まった旧宮家出身者』を国民は受け入れない。」と言われているようだ。果たしてそうだろうか。
真子様と小室圭のテレビ、週刊誌、ネット・・・etc.沙汰は十分世俗的だと思うんですが?


旧宮家が皇籍を剥奪された後、昭和天皇によって「菊栄親睦会」がつくられ、新年の祝賀や天皇誕生日など定期的な昼食会が開催されているが、東久邇家はその中心メンバーという。
一方、清子内親王(紀宮、内親王 → 降嫁;黒田 清子、上皇明仁第一皇女)は降嫁して黒田清子(くろださやこ)となったが、2017年(平成29年)6月19日に伊勢神宮祭主に就任し、皇室関連のお仕事をなされている。祭主は名誉職ではなく大変な責務を伴う世俗に染まった人材ではなしえない聖職である。これまでは上皇陛下の姉「池田厚子さん」がやっていたが、高齢のため黒田清子さんが引き継いだ。歴代、皇族が引き継いでいる。



2004年、小泉政権下で設置された「皇室典範に関する有識者会議」の報告書内容
・女性天皇及び女系天皇を認める。
・皇位継承順位は、男女を問わず第一子(愛子内親王)を優先する。
・女性天皇及び女性の皇族の配偶者も皇族とし女性宮家の設立を認める。
・永世皇族制を維持する。
・女性天皇の配偶者の継承は「陛下」とする。

悠仁親王の誕生により見送られたが、野田佳彦内閣でも再燃した。内容は極めてショッキングである。
皇統が護られず一般家に代わることは「皇位簒奪」である。そこには卑しい「暗躍」もあり得る。

それよりは選挙で選ぶ「大統領制」の方が増しである。
それが天皇制の廃止をもくろむ『リベラル派』『共産主義者』の狙い・付け目である。
彼らは皇室が国民に人気があり、天皇制廃止を正面から唱えると国民の支持を失うことを知っている。
政党は支持率を失い、新聞、雑誌は発行部数を減らし、テレビは視聴率を下げる、のを恐れている。


※「天皇、皇室」に関する記述は、右「カテゴリ」欄の「天皇、皇室」(上から19行目)をクリックしてください。

続く

渋沢栄一 新10000円札の肖像画の人物像

渋沢栄一
新10000円札の肖像画の人物像
1840年3月16日(天保11年2月13日) ~ 1931年11月11日(昭和6年)(満91歳没)
武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)出身
江戸時代;百姓(名主階級)、武士(幕臣)
明治時代:官吏、実業家、教育者

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                     新10000円札 渋沢栄一の肖像

『日本資本主義の父』と呼ばれ、日本に『株式会社』制度を定着させた。自らは『財閥』をつくらず、民業の繁栄を通じて『公益』の道を進めた。利己益の追及を戒め、企業の社会的責任・企業統治(コーポレートガバナンス)を追求・実行した先駆者であった。
現在、『グローバリズム』の名のもとに、世界を席巻する世界中の(ゴーンのような)経営者・資本家に『爪の垢を煎じて飲ませたい』日本が誇る立派な人物である。
だからこそ今、日本国の最高額10000円札の肖像に最もふさわしい人物と思われる。


中国にも『渋沢栄一』が欲しいということで、中国が『渋沢栄一』の研究をしたというが、その政策からは『渋沢栄一』流の企業の社会的責任・企業統治(コーポレートガバナンス)の精神は爪の垢ほども感じられない。数百社もの会社を手っ取り早く設立する能力が欲しいだけなのであろうか。
ピータードラッカー(世界的経営学者)も渋沢の賞賛・崇敬者の一人だが「経営の『社会的責任』を論じた歴史的人物の中で、日本の資本主義を築いた人物である『渋沢栄一』の右に出るものを知らない」と言っている。
なお渋沢は1926年、1927年(大正元年、2年)のノーベル平和賞候補になっている。


渋沢栄一が創業に関与した企業は第一国立銀行や東京証券取引所など多種多様で480社におよぶが、うち300社が今なお事業を継続しているという。
教育者としては、二松學舍第3代舎長(現在の二松学舎大学)を務めた他、商法講習所(現在の一橋大学)、大倉商業学校(現在の東京経済大学)の設立にも尽力した。
多方面に活躍したが残念ながらここには書き切れない。


渋沢栄一の原点
は15代将軍徳川慶喜の幕臣時代にある。渋沢栄一が尊敬してやまない人物は徳川慶喜であった。
慶喜が将軍となった(1866年(慶応2年)12月5日—1867年(慶応3年)12月9日)のに伴い幕臣となり、パリで行われる万国博覧会(1867年)に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・徳川昭武の随員としてフランスへと渡航し、パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、社会を見て感銘を受ける。昭武とともに帰国したのは、慶喜による大政奉還(1867年11月9日(慶応3年10月14日))がなされた後のことで、新政府の命令による1868年12月16日(慶応4年11月3日)のことであった。


帰国した渋沢は徳川慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受した。
渋沢栄一という才能と人格を見出し、万博派遣というチャンスを与え、明治の日本国へおくったのは徳川慶喜その人であったのだ。
明治維新の際、西欧列強の植民地にならなかったのは慶喜による『大政奉還』により内乱を未然 に最小に防いだからである。薩長は負けても敗者復活で喧嘩したくてしょうがない状態で、内乱を避けるため妥協し、日本を救ったのは徳川慶喜であった。



『戊辰戦争』 (明治元年戦争)は『薩長藩閥』の尻の穴が小さいことを示す恥じる程度の意味しかないことを国民は知るべきである。薩長に惨殺された「明治の父」(司馬遼太郎)と称される小栗上野介、米露との外交に活躍した川路聖謨(かわじとしあきら)などの外交官僚など江戸幕府には有能な人材が多かった。
これら徳川幕府の人材と協調し明治政府を運営すれば、 『大日本帝国憲法』 (明治憲法)という欠陥憲法で軍部の跳梁跋扈を許し、あれだけ多くの戦争をすることはなかっただろう。

新元号 『令和』 (れいわ、REIWA)

新元号 『令和』 (れいわ、REIWA)
4月1日、新元号が『令和』と決まり発表された。万葉集が出典で日本の古典からははじめてという。
言葉としての響きが良い。簡素な字画の姿が良い。その意味に深い味わいがある。出典 が良い。・・・etc

    DSC09326.jpg
 図の右5案の他に国書(日本古典)由来の案をさらに出すよう、中西進氏らに追加依頼した。その中から
 『令和』を3月最終週に加え、計6案が4月1日の有識者懇談会に示す原案となった。(図はNHKテレビ)



『令和』の出典
万葉集 巻第五
梅花の歌三十二首并せて序 天平二年正月十三日(西暦730年2月10日)
作者大伴旅人:大宰府の帥大伴旅人の邸宅に集まって宴会を開いた。その一節
「初春令月、氣淑風和」     初春の令月にして、氣淑(よ)く風和(やわら)ぎ

漢籍:後漢時代の文人張衡(ちょうこう、西暦78年~139年)の詩『帰田賦』(文選)
「仲春令月、時和気清」     仲春の令月、時は和し気は清む

大伴旅人の文章(漢文)は明らかに張衡の「帰田賦」を下敷きにしている。
優れた文学へのリスペクトあるいはオマージュとして、尊敬する先人の作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事はよくあることであるが、それはときに素晴らしい傑作を生む。日本には『本歌取り』の伝統がある。
大伴旅人の序、『梅花の宴』を開いたことおよび漢文の文章をしたためたこと、は王義之の「蘭亭序」を模している(中西進氏)。王義之と張衡の漢籍は二重に大伴旅人のあこがれであったのであろう。


日本の古典から選んだのは間違いないが、それを書いた大伴旅人は中国の王義之、張衡へのオマージュがあったことは認識すべきである。
これらすべてを含めて、元号『令和』の選定は素晴らしい。

大伴旅人は大宰府長官(帥)。山上憶良(筑前守山上太夫)もこの宴に参加している。大宰府がある筑前国の言わば知事(筑前守)が山上憶良。この『序』文は憶良作との説もあるらしい。地位は大宰府帥旅人がかなり上。

『令和』の提案者は萬葉学者の中西進氏』だと報道されている。真実であろう。

※参考:中西進 萬葉集 全訳注 原文付 講談社 昭和59年9月 377~386頁

ウインストン・チャーチルによる好戦的策謀

     「歴史のファクト」「歴史修正主義」および「コミンテルンの策謀」など  
         その2 ウインストン・チャーチルによる好戦的策謀

        2016040600012_1[1] (2) チャーチル

チャーチルレトリック(文章、演説)の天才である。
チャーチル自伝は高校時代、英語の教科書にあった。チャーチルは文章の天才だから、私は「ガリア戦記」で知られるシーザーと同質な天才的英雄だと思っていた。日本にはチャーチルファンが多いからアマゾンの書籍一覧にもこの自伝は凄いとの書評がある。確かに、レトリック力に優れたチャーチルの史書は面白い読み物であるが、彼の演説、文章は国家を、世界を誤った方向に動かした。
チャーチルの著作「The Second World War Ⅱ(第二次世界大戦回顧録)」が直接的なノーベル文学賞受賞の理由となったらしい。
「チャーチルの名言集」なども有名である。

日本国内にもチャーチルを賛美する著書が多い。
ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男 (角川文庫)
チャーチル 不屈のリーダーシップ
危機の指導者チャーチル (新潮選書)冨田 浩司 などなど枚挙にいとまがない。


ハーバート・フーバー米元大統領によると、以上は、従来通りの歴史観「釈明史観主義(釈明(apology))」の歴史観による評価である。
しかし、最近のファクト(事実)重視の「歴史修正主義」によるチャーチルの実像、評価は違っている。以下にそれを解明する。



歴史を簡潔に振り返る。

第一次世界大戦
1914年にオーストリア皇太子がサラエボで暗殺されたことがきっかけで起こった。
オーストリアードイツ連合とロシアーフランス連合の間に戦争が起こる。
初期にイギリス外相エドワード・グレイによる和平仲介がなされた。すなわちイギリスは傍観者であった。
 
ドイツがフランス攻撃のためベルギー通過を求めたがベルギーは拒否。ドイツはベルギーに侵攻した。
イギリスはベルギーの中立保障条約を根拠に対独宣戦布告した。すなわち、小国ベルギーがドイツの通過を拒否したのは、イギリスへの小国らしい甘えがあったためと言われている。

イギリスのハーバート・アスキス政権は非干渉の立場をとる勢力が主流だったが、70年以上前の古びた条約を根拠に対独戦争を強硬に主張したのが若きチャーチル(40歳、海軍大臣)で、ロイド・ジョージ蔵相も同調した。閣議により参戦が決まると内閣は瓦解しそうになるが、それを防いだのはチャーチルのレトリック力ある演説・弁舌であった。イギリスの世界覇権維持強化のための戦いであった。
アスキス首相はチャーチルの好戦的性格に驚いた。

イギリスのドイツの非人間的な非道・残虐行為に対するプロパガンダは国内、海外に対し徹底していた。
アメリカはイギリスに武器輸出をしたが、隠蔽のため客船も使った。ドイツはそれを防ぐためアメリカの客船を攻撃した(その客船が武器を積んでいたことは戦後に解明されている。)。それを機にアメリカも参戦し、世界大戦の様相を呈した。アメリカはイギリスの軍需工場と化し未曽有の繁栄を謳歌した。


第一次世界大戦はドイツの敗戦に終わり、ヴェルサイユ条約が結ばれたが、敗戦国ドイツにとって屈辱的で非現実的な賠償請求がなされた。いわゆるヴェルサイユ体制という敗戦国ドイツにとって不正義な地獄の条約は、やがて「ヒトラー」の出現」の原因となり、第二次世界大戦の原因を萌芽させることになる。


1929年、保守党の選挙敗戦(スタンリー・ボールドウイン内閣)を受けてチャーチルは大蔵大臣の座を降り、作家に専念した。アメリカ事情の視察に行き、政治家、財界の進めるままにギャンブラーチャーチルは株を買ったが、ニューヨーク株式市場の暗黒の木曜日(1929.10.24)に遭遇し、大きな借金を負った。

1935年イギリスの総選挙でボールドウインが首相の座に帰り咲いたが、チャーチルに入閣の声はかからなかった。チャーチルはベルサイユ体制固定化の旧態依然の思想でその不正義に鈍感であった。また、肌の色の違いによる強い人種差別主義者であった。
閣内に入れないことでチャーチルは存分に政府批判を始めた。ヒトラードイツに対しその反ユダヤ政策は好都合であったが、現在の視点のユダヤに対する「ホロコースト」はまだ起こっていない時代の話であることは注意すべきである。チャーチルはレトリックを駆使し、雑誌などを動員して徹底的にヒトラードイツを批判した。


1937年同じく保守党のチェンバレン内閣に代わったがチャーチルは同様に閣外であった。ヒトラーが東進したければ東進させスターリンと戦わせるというのがイギリスの基本的考えで方であったが、それを引き留めたのは小国ポーランドに対するチェンバレンの方針転換とそれに追随するフランス外交であった(ダンツィヒ・ポーランド回廊問題)。それはポーランドという小国の安全保障であることは第一次世界大戦におけるベルギーの立ち位置に似ている。すなわち、小国のわがままが世界の方向を誤らせた。ポーランドに関する英仏のこの誤りがなければ、カチンの森におけるポーランド将校1万2000人のソ連による殺戮も、第二次世界対戦も起こらなかったであろう。

チャーチルの巧みなレトリックによるイギリスの世論操作も影響した。
1939年9月4日、チェンバレンは万策尽き遂にドイツに宣戦布告し、数日前無任所大臣にしたチャーチルを海軍大臣に任命した。
1940年チャーチルは首相に着任し、1941年12月日本が真珠湾攻撃したとき、同じく好戦的なアメリカのルーズベルト大統領と電話会談し快哉の祝杯を挙げた。アメリカはルーズベルト大統領の意に反しヨーロッパの戦争には加担しないという世論が80%を超え圧倒的だったが、真珠湾攻撃は世論を動かしアメリカは太平洋戦線とヨーロッパ戦線に参入した。

<まとめ>
日本の東条内閣も馬鹿であるが、チャーチルとルーズベルト(FDR)という好戦的な指導者の存在は世界と日本にとって不幸であった。
チャーチルとルーズベルトが共産主義の脅威に鈍感でスターリンを味方に引き入れたのは歴史的皮肉である。東進するヒットラーとスターリンを戦わせるのが歴史的な必然であるという見方は当時でも常識的な見方であったのだから。
チャーチルもフランクリン・ルーズベルト(FDR)も愚かな指導者であった。もちろん日本の東条英機も軍部もだが。


戦争を始めるのは誰か  (これが本稿で参考にした著書名である。渡辺惣樹著:前稿参照)
チャーチル第一次世界大戦と第二次世界大戦を始めた人類にとっての大犯罪者である。
ヒトラーも彼の手のひらで踊らされたに過ぎない。

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 辻 幸弥 (つじこうや)

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