星野文紘さん 出羽三山の修験者で宿坊主人

星野文紘さん  出羽三山の修験者で宿坊主人
星野文紘さんのお兄さんは同時期同じ大学で学び、その縁で文紘さんの宿坊=大聖坊にお世話になったことがある。そのほかにも色々な縁がある。NHKBS放送で「新日本風土記」「出羽三山」が放映され、星野さんに詳しく触れていた。その写真とともにメモを記録しておきたい。

出羽三山の歴史は6世紀にはじまる。古事記、日本書紀が8世紀に編纂されたことを思うと、この時代の記録があったのかと驚くほど古い。
開祖は蜂子皇子(はちすのみこ)とされるが、西暦595年の政変時、18歳の聖徳太子が逃がした、ときの天皇の第一皇子であった。修験道場と仏教(主に天台宗)が結びつき神仏混交の場であったが、明治維新のとき「廃仏毀釈」という愚にあい、多くの仏教建造物が破壊された。その中で五重塔はかろうじて残り、国宝に指定されている。

信者は多く、修験場として多くの参拝者を全国から集め、羽黒山の手向集落には江戸時代300を超える宿坊があったという。参拝者の集団(「講」を構成し計画的に参拝した)は先祖代々同じ宿坊に宿泊し、宿坊と信者の縁は非常に深いという。


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出羽三山神社に至る大鳥居と月山  羽黒山、月山、湯殿山を出羽三山という。

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星野文紘さん  慈愛に満ちた人柄である。星野さんの宿坊は相馬など代々福島県浜通りの信者の利用が多いという。

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南相馬出身の木幡信雄さんは代々宿坊という縁で星野さんと結ばれている。東日本大震災で被災したとき、星野さんを頼り鶴岡に来て、今も鶴岡に住んでいるという。月に一度以上星野さんを訪ねる

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星野さんの宿坊の室内

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白装束で月山頂上に向かう信者たちの行列


日本の歴史のかぐわしさと反省点
日本は歴史的なものを大切に保存してきた。
しかし、残念なことに木造建造物の寿命は短く保存性は良くない。

明治維新のとき、日本の歴史上かつてないほどの愚を犯したのが「廃仏毀釈」であった。このような破壊は日本の歴史では珍しいことかもしれないが残念である。我々は最近のこととして大いに反省しなければならない。

星野文紘さんは歴史の継続者であると思う。ここに書いたことは日本の歴史のかぐわしい一場面である。


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鶴岡みやげ だだちゃ豆フリーズドライ

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だだちゃ豆フリーズドライ  鶴岡のみやげ

故郷である鶴岡へ帰って来た。
お土産にいただいた中に「だだちゃ豆フリーズドライ」があった。
早速いただいだら、気泡が多く柔らかく乾燥したサクサクした噛み応えの上に「だだちゃ豆」の風味がそのままフリーズ(凍結)されている。アイデアと実用化の妙が素晴らしい。

実はこれ、日本農業新聞 「一村逸品大賞」 2014年 大賞受賞作品なのだ。

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いただいた「殿様のだだちゃ豆」

城下町・鶴岡の酒井の殿様が大変な枝豆好きで、食べる毎に「今日はどこのだだちゃ(お父さん)の枝豆か?」と聞いたことから、いつからか「だだちゃ豆」と呼ばれるようになったという。
子供の頃わが家でも父親のことを「だだちゃ」と呼んでいた。周囲の家では単に「だだ」と呼ぶのが一般的であったが、わが家は「篤農家」だったためであろうか「だだちゃ」と呼んでいた。

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;だだちゃ豆のフリーズドライ 説明書

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召し上がり方

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日本一のクイズ王 「やくみつる氏」 が「審査委員長」であった

実は明後日、「下部(大腸)内視鏡(フィイバースコープ)検査」を受けることになっているので、今、豆類は食べられない。
「だだちゃ豆フリーズドライ」をつまみにビールを飲むのを楽しみにすれば、辛い内視鏡検査にも耐えられるというものだ。

おみやげ、ありがとう!!!


鶴岡調査

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             「鶴岡調査」の調査区域  故郷へのこだわりがあるので表示します

鶴岡調査
国立国語研究所は,日本における言語生活の実態を捉えることを目的に,日本各地で言語調査を実施しているが、それらのなかで一番重要なのが山形県鶴岡市でおこなっている調査。この継続性は世界的にも評価されるものだという

鶴岡市における「第4回ことばの調査」
2011 年 10 月 28 日鶴岡市役所にて::記者発表資料

■日本語の将来予測にむけて
国立国語研究所は,昭和23(1948)年に設立されました。翌年の昭和24(1949)年以降,日本における言語生活の実態を捉えることを目的に,日本の各地で言語調査を実施してきました。

それらのなかで一番重要なのが,山形県鶴岡市で,昭和25(1950)年,昭和46(1971)年,平成3(1991)年の3回にわたって統計数理研究所と共同でおこなった調査です。第1回の調査から現在まで約60年が経過し,その間,社会は大きく変化しました。11月にスタートする第4回調査は,地域社会のことばの使い方がどのように変化したかを探るとともに,日本語の将来を予測するための最先端の科学的研究を推進していきます。

            outlinedesign_00s[1]   ランダムサンプルとパネルサンプル

国立国語研究所と統計数理研究所による言語調査研究の方法
・ 言語生活の実態把握とことばの変化についての調査を実施。
・ 調査にご協力いただく市民は,科学的な方法(ランダムサンプリング)によって,住民基本台帳から無作為に選出(ランダムサンプリング調査)。=>
・ さらに,過去の調査にご協力いただいた市民に,再度ご協力いただく調査(パネル調査)も並行して実施。



2015年3月19日  上記調査に関する報告書(第2分冊)を刊行しました。
 

東京新聞の報道  2015年5月29日 東京新聞
日本人過去60年でバイリンガル化? 方言と共通語使い分け

60年間で日本人は「バイリンガル化」し、時と場合に応じて方言と共通語を使い分けるようになった。国立国語研究所は、山形県鶴岡市の住民を対象に20年に一度実施している「鶴岡調査」の4回目の結果から、このような報告をまとめた。調査は日本人の言葉の使い方の変化をみるのが目的。他の方言の影響が小さいとみられた鶴岡弁に注目し、2011年の第4回では約800人が答えた。

例:ネコの絵を見せて「これは何ですか」と口頭で尋ねる質問。第1回では63%が共通語「ネコ」、37%が鶴岡弁「ネゴ」と答えたのに対し、第4回では共通語が97%。鶴岡弁は3%に激減した。


PK2015052902100150_size0[1]標準語に対し「ネゴ3%」、鶴岡弁らしくに「ネゴ88%」と使い分ける

しかし、同じ絵を見せて「鶴岡弁らしく発音して」と、第4回で初めて聞いたところ、88%が鶴岡弁で発音でき、鶴岡弁を話す力は、多くの人に健在だと分かった。
また、第4回では、家族と話すときに半数以上が鶴岡弁を使い、共通語を使うのは10%未満だった一方、鶴岡への旅行者とは60%近くが共通語で話すと回答。第1回では、共通語で旅行者と話すのは40%に満たなかったことから、相手や場面に応じて、方言と共通語を使い分ける 傾向が強まっているとした。

国立国語研究所の研究員時代から調査に携わってきた専修大講師の阿部貴人さんは「社会が成熟して、方言は誇らしく守るべきものという地位を獲得した」と指摘。その上で「各種メディアの発達などで共通語も話すようになり、相手や場面、状況に適したものを使えるようになった」と分析している。


碑が立つ話  藤沢周平の随想

DSC00545_20140612224850eae.jpg  藤沢周平先生「記念碑」

碑が立つ話   藤沢周平の随想

藤沢周平に「早春」という現代小説がある。文春文庫「早春」に収められているが、この文庫本はこのほか時代短編小説2編と随想4編から構成されている。その随想の最終編が「碑が立つ話」である。平成7年(1995年)に書かれたと推定される。以下に終わりの部分をそのまま引用する。
  参考  クリック →   藤沢周平生誕地と湯田川中学校のあいだ
             →   湯田川温泉


「碑が立つ話」より 引用
  一昨年の秋に郷里に帰ったとき、私は泊まっている旅館の女将(おかみ)大滝澄子さんに萬年慶一君を呼び出してもらった。
  二人とも私の教え子で、郷里に残る同級生のまとめ役をやらされている。萬年君は家業の農業のかたわら鶴岡市農協の理事も兼ねていて、いそがしい身体なのだが、夜になるとさっそくにやってきた。彼の家は旅館から歩いて十分以内のところにある。
  私は旅館のロビーで二人を前にならべ、哀草果の歌碑の例も出して、文学碑はだめだと強い口調で言い聞かせた。二人は黙々と聞いていたが、やがて萬年君が顔を上げた。「先生が派手なことを嫌うことはよくわかっているいるけれども、文学碑は先生だけのものではなく、私たちのものでもあると思う。碑を見て、あああのころはこんなに身体がちっちゃくて、先生から勉強を習ったなと懐かしく思い出したり、そこに碑があることで何かのときに力づけられる、そういうもんではねえだろうか。もし、先生と私たちをむすぶ絆を形にしたものがなかったら、さびしい」
  今度は私が黙って聞く番だった。負うた子に教えられるという言葉がちらりと頭を横切った。結局私はあなたがたにまかせようと言った。ただし文学碑という言葉を一切使わないことを条件に出した。碑はどこかに「藤沢周平ここに勤務す」というような文字を加えて、校庭の一隅に建てることになるらしい。その動きをわたしはいま、時にはとてもはずかしく、時には私ほどしあわせな者はいまいと思ったり、複雑な気持ちで眺めているところである。

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                                 藤沢周平先生の教え子「萬年慶一氏」の「記念碑」発起文

引用文に書かれているように萬年慶一氏は鶴岡市農協の理事であったが、私の兄も同時期に理事で特に親しくさせてもらっていた。萬年さんが藤沢先生に逢うと先生が書いた色紙を持って来るが、自分の手元に残っているのかなあ、と心配していたことがあった。
色紙には 「軒を出て 狗寒月に 照らされる」 と 「花合歓や 畦を溢るる 雨後の水」 という自作の俳句が書かれていたと記憶している。狗は(いぬ)、合歓は(ねむ)と読む。藤沢周平が結核で教職を離れざるを得なくなり、東京近郊の病院で療養していたとき、「海坂(うなさか)」という俳句の会に所属していたがそのときの作品と思われる。


藤沢周平生誕地と湯田川中学校のあいだ

高坂(黄金小学校)と湯田川温泉の間

高坂と湯田川温泉

藤沢周平記念碑文

赴任してはじめて、私はいつも
日の暮れる丘のむこうにある
村を見たのである
  『半生の記』より


藤沢周平は、黄金村高坂の生まれで、黄金小の出身である。
高坂または黄金小から湯田川温泉の方向(西方)を見ると、その間は金峰山の麓で丘をなしている(地図参照)。
藤沢周平は幼いころから「日の暮れる丘」を見ていたが、僅か3〜4km先の「日の暮れる丘のむこう」の湯田川温泉に行って見たことがなかった。先生として赴任してはじめて見たのである。


そして、そこには先生と生徒の相思相愛の深い縁(えにし)があった。
湯田川中学校の記念碑の碑文としてこれほどふさわしい文章はないであろう


DSC00545_20140612224850eae.jpg 藤沢周平記念碑


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