諏訪根自子 4

 
 大島大使夫妻一行と車でベルリンを出てチェコスロバキアに入り、宿泊したホテルで進駐してきた米第七軍に軟禁される(昭和20年4月?)。一行はザルツブルグを経てフランスのル・アーブル港に護送され、やはりヨーロッパ滞在中であった近衛秀麿も米軍にとらわれて加わり、ジェネラル・ゴードン号に乗船させられ米国へ向かった。同船には西部戦線から日本の本土侵攻に向かう米第八軍の兵隊が満載されていた。

 自由の女神が立つニューヨーク港手前のリヴァテイ・アイランドの難民収容所で徹底的な所持品検査、身体検査が行われたが、ストラデヴァリウスは接収されなかった。一行170名が米国東部アパラチア山系のベッドフォ-ド・スプリングのホテルに収容されたのは昭和20年8月9日のことであった。

 11月11日、ヴァイオリン独奏諏訪根自子、ピアノ伴奏近衛秀麿、テノール独唱内本実の音楽会を開き、米国国務省関係者とホテル従業員たちも招待した。深夜まで拍手が鳴りやまず、アンコールを繰り返したという。11月16日ホテルを発ち、11月24日シアトル港から軍用ジェネラル・ランデル号に乗船し、昭和20年12月7日夕刻浦賀に到着下船した。諏訪根自子はほぼ10年ぶりに日本の国土を踏んだ。


 1937年4月9日、立川~ロンドン間1万5千㎞を飯沼正明操縦の「神風」が94時間余で飛行した。「美貌なれ昭和」という書名は、この慶事に因み、「宮本武蔵」を執筆中の吉川英治が朝日新聞に書いた「美貌なれ国家」という一文を真似たものである。「国際面に対しても、美貌は国家も必要としてもつ容姿でなければならない」

 飯沼正明が真珠湾攻撃のニュースを聞いて、そのショックで飛行機のプロペラに巻き込まれて死亡し、諏訪根自子が戦時のヨーロッパにあった時代、日本は精悍殺伐な顔つきになり美貌ではなかった。そして、諏訪根自子が浦賀に下船したとき、日本は再び美貌に向かい出したと言えるのではないだろうか。


 このシリーズを一応終了します。


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諏訪根自子 3

 
 昭和11年(1936)、16歳でベルギーに留学(3月11日、ブラッセル到着)、そのとき保護者格のベルギー大使は来栖三郎であり、ベルギーではエリザベス皇太后の客人といった立場だったという。翌昭和12年(1937)、立川~ロンドン間1万5千㎞を94時間余で飛行し4月9日ロンドンに到着した飯沼正明操縦の「神風」がベルギーのブラッセルを親善訪問した。4月16日のことであった。根自子は来栖大使の娘と「花束」を渡す。

 この小説の二人の主人公の接点は「時代」と二人とも「美貌」であったことと「ブラッセル飛行場」だけである。根自子は「飯沼さんはとても綺麗、あんな人は一寸見たことがない」と日記に書いたし、飯沼は「今日は諏訪根自子さんが、出迎えてくれた」と国際電話で東京へ報告した。

 昭和13年(1938)1月、諏訪根自子は留学を終えパリに移り、翌年、演奏家としてデビューする(諏訪根自子1 冒頭写真)。第二次世界大戦とともに、昭和15年パリの在留邦人、画家藤田嗣次、岡本太郎などが帰国してゆく。藤田は帰国後「戦争画の歴史的大作」を描いている。しかし、根自子は戦時下のパリにとどまった。この状況下で演奏活動をし、賞賛される。

 昭和16年の第二次引き揚げにも諏訪根自子は応じなかった。昭和17年ドイツ占領下、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなど一流指揮者達が指揮する交響楽団と次々に共演する。昭和16年2月、ナチス・ドイツ宣伝省ゲッペルスからストラディバリウスのヴァイオリンを贈呈される。

 戦時空襲下、根拠地パリからベルリンへの移動にも苦労した。与謝野鉄幹・晶子夫妻の二男外交官与謝野秀(しげる、政治家与謝野薫の父)の努力で、スイスで演奏会を行う。回を重ねる毎に評価と知名度が上がり好評の度が増した。新聞記者など周囲にスイスへ居を移すよう尽力する人がいたが、しかし、もはやベルリンからスイスへの移動さえままならなかった。
 

諏訪根自子 2

諏訪根自子のコンサート
諏訪根自子12歳 昭和7年(1932年)4月9日
ヴァイオリンコンサート in 日本青年会館


 12歳から留学する16歳までの活躍はインターネットで当時の録音盤を聴くことにより体感できる。<リンク諏訪根自子>をクリックすると、まずパガニーニのテクニックを要する曲が聴けるが、その同じ画面にはそのほかの曲も表示される。ありがたいことに諏訪根自子への哀悼の意のため最近登録された曲も多数あるようだ。

  また78回転レコードの再生であるが、竹針、手巻きによるレコードの回転、電気を用いない音の増幅(ラッパ状の管)、によるエジソンの発明(異論もある)に改良を加えたレベルの蓄音機による再生もあるようで楽しい。博物館で聴いたことがあるが意外に音質が良く自然で、音域、音の分解能なども素晴らしいものであった。音の文化の時代変遷も楽しめる。


 なお、この項は「美貌なれ昭和」とは直接関係ない。つづく

諏訪根自子 1

諏訪根自子

諏訪根自子 昭和14年 19 歳でパリ楽壇デビュー(サル・ド・ショパンにて)
右の写真はパリにおける恩師カメンスキー夫妻と (パリでは夫妻の家に居住)

  

 「美貌なれ昭和」 諏訪根自子と神風号の男たち 深田祐介
  (1983年10月30日刊 11月20日初版第1刷 購入) を読み返した。

諏訪根自子;大正9(1920)年1月23日~平成24(2012)年3月6日
        逝去が報じられたのは平成24年9月24日(亨年92歳)
飯沼正明 ;大正元年(1912)8月2日~昭和16年(1941年)12月11日

 同郷出身の大学の同窓生と会った。先輩が2名、同年卒1名、後輩2名、出席者合計6名。談論に丁度良い人数である。郷里の先人達に話が及ぶのは自然のなり行きであろう。話題が豊富な先輩の佐々木氏から、最近訃報が報じられた諏訪根自子の話が出た。私は「美貌なれ昭和」という諏訪根自子と飛行機乗りの小説を読んだことがあるのを思い出した。30年ほど前のことになる。後輩の佐藤氏の「百名山」を征した話の後であったこともあり、作者の名前が「深田…久弥…?」、名前の方が出てこないというより、深田という姓まで思い違いと錯覚する始末であった。作者は「アテンションプリーズ」の「深田祐介」である。

 諏訪根自子は庄内出身の両親が東京に出てから生まれたが、母親の諏訪滝は酒田女学校出身で声楽家を志すほど音楽に傾倒した人である。父順次郎は有島武郎など白樺派の作家、芸術家と親しく、クラシックレコードが当たり前にある家庭環境であった。根自子はカルーソー(テノール)、エルマン(ヴァイオリン)、ジンバリス(ヴァイオリン)などを胎教として聴き、また生まれてからも聴いたことになる。根自子がレコードに敏感に反応し、童謡を教えると音程、リズムをしっかりと歌いこなすのを発見して、滝は満3歳の根自子にヴァイオリンを習わせる。小野アンナ、白系ロシア人アレキサンドル・モギレフスキー二人の巨匠に師事し、11歳のとき「天才少女」と新聞に紹介されるにいたる。この二人のロシア人の巨匠の来日・在住は奇跡といわれるがロシア革命という政変による。


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