ラスコー展

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  ラスコーの壁画  線描画

ラスコー展
上野の国立科学博物館でラスコー展を見た。
12月9日(金) 11:30~14:10 入場料1,600円

好天気だ。用が終わったらどこで何を観ようかと、朝9;50頃上野駅公園口から出て、修学旅行生たちが西洋美術館前で記念写真を撮っている様子を横目にしながら、公園内の美術館、博物館の行事看板を眺める。東京都美術館のゴッホーゴ-ギャン展は先週観たが、ほどほどには混んでいたがあの若冲展の殺人的混み具合に比べると夢のようであった。

人類の一次文化・文明に興味があるから、ラスコー展を見ることにしよう。
すなわち、人類が感性ではじめて発想した美術・芸術に興味がある。ヨーロッパの画家たちが葛飾北斎の影響を受けたとか、バロック、古典派、ロマン派など音楽の流れは一応知っているが、無理して発展(?)させようとした「現代何とか」とか「モダーン何とか」よりは、オリジナルへ歴史をさかのぼることの方が面白そうだ。


DSC07712.jpg クロマニヨン人の像
  寒冷地でも豊かな感じ


我々人類=ホモ・サピエンスの先祖は20万年前アフリカに生まれ5,6万年前からヨーロッパ、アジア、東南アジア諸島、日本、南北アメリカ大陸に拡がっていった。ラスコーの洞窟に壁画を描いたクロマニヨン人はヨーロッパに分岐したホモサピエンスである。ネアンデルタール人が先住し共存したが、壁画などの文化を持たず、ラスコーの壁画が描かれた約2万年前には、数パーセントくらいはクロマニヨンと混血したらしいが、ほぼ滅んでしまったという。ネアンデルタール人のDNAは少なくなったが現代人にも%程度混在しているらしい。

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 泳ぐ鹿  列をなしているのだろうが、ダイナミックな動きを表現しているようにも見える

ラスコーの洞窟と壁画(フランス)は1940年に発見されたが、多数の観客の影響で傷んだため現在閉鎖されている。経過は高松塚古墳に似ている。傍に洞窟の模型・模写を作り、観光に供しているという。科学博物館で見たものは1mm以下の高精度緻密な実物大模写であるというが、模写技術も次第に進歩したからある程度劣化してからの模写であるだろうと気になる。

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 鳥人間  何を表現したものか不明だという

線の流れ、造形描写に非凡なものを感ずるから集団の中で才能ある者が描いたのであろうか。あるいは未開地の原始的なホモサピエンスは(現在でも)数の概念が発達せず、多数の動物などは数より微妙な個体差で認識するというから絵画的才能には普遍的に感性が鋭く優れていたのかもしれない。600の動物の絵が描かれているというが、どのくらいの人数でどれくらいの世代にわたって、何組くらいの集団が描いたのであろうか。

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洞窟の暗い壁に灯をともしながら製作し、その灯で鑑賞したという。動機には、宗教、豊穣への祈りなどあるだろう。しかし、私には芸術への限りない欲求の萌芽があったと思われる。それだから、今ホモ・サピエンスは栄えている。

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とと姉ちゃん 暮らしの手帳

geo16070905030011-p7[1] 出演者たち
       杉咲花    相良樹    高畑充希    唐沢寿明     伊藤淳史

とと姉ちゃん(NHK朝ドラ) 暮らしの手帳

NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」を楽しんでいたが終った。視聴率も高く、好評だったのを慶んでいる。
雑誌「暮らしの手帳」を起こした「大橋鎭子」と天才編集者「花森安治」をモデル(モチーフ)にした物語である。
鎭子が父親代わりの「とと姉ちゃん」とすれば、花森安治は母親の思い出を大切にし、東京帝大時代に自製「貫頭衣」(後、直線裁ちに発展?)を着て構内を闊歩していた服装オタクの面があり、「かか兄ちゃん」の面があったと思う。補い合う相性ピッタリのコンビであったのだと納得する。言葉を変えると「ファザコン」女性と「マザコン」男性のコンビであった。 

私の家内は「暮らしの手帳」の愛読者であり、別荘には今もある期間のバックナンバーと同社の「一千五厘の旗」などの出版物が本棚の一角を占めている。だから、花森安治という天才編集者がいたこと、広告収入なしに雑誌出版を成立させている出版社があることは知っていた。

「暮らしの手帳」の最新版を購入しようと思い立ち、NHK出版物のコーナーに「しずこさん」 (「暮らしの手帖」を創った大橋鎭子)「暮しの手帖 別冊」を入手。NHKのドラマ案内ではなく、れっきとした「暮らしの手帳 別冊」であることが気に入り購入した。


thDF2ZDI8W.jpg  大橋鎭子と花森安治

ヒロイン「小橋常子」は「大橋鎭子(しずこ)」のこと。「常子」という名前は鎭子の母方の祖母の名前にある。
「鎭子」の父「武雄」は北海道帝国大学農学部出身で、三姉妹「鎭子」「晴子」「芳子」は幼少時北海道岩内、三笠、虻田で育つが父の病気療養のため東京府に転居する。10歳で父が亡くなり、ドラマ同様鎭子は喪主を務める。
母「久子」は、京都生まれ小樽育ち、女子美大を首席で卒業した才媛で、母方は京都、小樽で事業家として活躍した家柄。事業家としての鎭子は、長女としての自覚と母方宮原家の血を受け継いだものと思われる。
歯磨き粉を作り販売したことも事実で(14歳~)、ドラマにあったチューブ爆発後は瀬戸物に入れて(OC歯磨き(OCは大橋鎭子のイニシャル))販売した。女学生時代から起業家精神が旺盛であったことになる。

東京府立第六高等女学校(現三田高校)を卒業後、日本興業銀行(現みずほ銀行)入行、調査月報編集の手伝いなどをする。三年勤め日本女子大へ入学したが、体調を崩し半年で退学。編集の仕事をしたいと「日本読書新聞」へ入社、小説家柴田錬三郎は先輩で同僚。
花森安治との出会いは「日本読書新聞」時代の人脈から。資金調達が必要なとき、(女性の出版社創立というリスクから)日本興業銀行の貸し出し基準を満たすはずもなかったが、元同僚達が、自分の退職金を担保に貸し出して欲しいと願い出て、叶ったという。人脈を大切にし、人脈に信頼された人柄だった。それが事業が成功する最大の要因であった。



長期旅行をしてきました


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  苫小牧港  写真中央付近に樽前山のドームがかすかに見える  9月15日フェリー北上より撮影


長期にわたり車で旅行してきた
主な目的は、大学の「同期会」出席、「大学のホームカミングデー」への参加。
ホームカミングデーの引き出物の茶碗には「Be ambitious again !」と書いてある。

9月14日(月)、台風が過ぎ去った後を追い、仙台から苫小牧へフェリーで渡った。
首都圏大宮に住んでいるが、岩手県一関市の家に寄ってから乗船するつもりでフェリーを予約した、。しかし、直接仙台北港へ行き、太平洋フェリーの「北上」に乗った。船は1万5,6千トン、船長約300mの大きさで、最近火災事故を起こした「大洗」から出る船(別会社)よりは大分大きい。


9月14日(月)19:00仙台発、15日(火)10:00苫小牧着
仙台へ早めに到着し、6番目に車で乗船したが、車は昇降口を1階降り、前進だけでUターン、昇降口の真ん前に駐車した。すなわちこの駐車位置は、最初に下船する位置に当たる。実は苫小牧着予定時刻は11:00と実際の到着時間10:00より1時間遅らせているが、車の下船に時間がかかるからその分「鯖」を読んでいるのかなと勘繰った次第である。

夕食はカレーライスで簡単に済ませ、朝食はレストランでバイキングをしっかり食べた。1000円であった。


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  樽前山ドームのアップ写真  樽前は懐かしい山である  9月15日フェリー北上より撮影 

帰りは、9月28日(月)苫小牧発19:00、仙台北港着29日(火)11:00
船は「石狩」で太平洋フェリーの最新造船である。船体は「北上」より少しだけ大き目であるがほぼ同じと考えてよい。
仙台港〜一関はカーナビの設定で、南三陸自動車道を通った。風が強く、ハンドルをとられ気味で運転は怖かったが、お馴染みの花泉を通り午後早めに一関のわが家に着いた。

ラジオでニュースを聞いていたら、栗駒山(地元では須川岳)の紅葉が綺麗だという。天候は下り坂。行くなら明日しかない。
良く晴れて栗駒山の紅葉は綺麗であったが、頂上付近は雲がかかり、視界が10m程度しかなく残念であった。しかし、数年ぶりで栗駒の紅葉を見たのは幸せなことであった。


あれやこれやで東北を過ごし、大宮にたどり着いたのは週末になり、10月も数日を過ごしていた。

海野宿の辻行灯

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海野宿へ旅行した。「本ブログの表題」である見事な「辻行灯」があった。

  海野宿の辻行灯

        main_map[1] 北国街道の宿場町「海野宿」

海野宿の次の上田は来年のNHK大河ドラマ「真田幸村」の兄「真田信之(信幸)」の居城があったところで、「真田家」は江戸時代初期に東脇往還松代道の「松代藩10万石」に移封された。譜代「酒井家」が「松代藩」から「庄内藩13万8千石」へ移った後に入ったのであった。「関ケ原の戦い」「大阪の陣」で真田家は「豊臣」と「徳川」を両天秤に掛け、どちらかが生き残る戦略だったと聞く。松代藩真田家は明治維新まで生き残った。

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  辻行灯の拡大写真
この地域の呼び方として「小県(ちいさがた)」という地名がある。博物館で聞いたら、合併で小県郡がなくなり、「小県」という呼称はなくなったらしい。寂しいと思う。

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  海野格子の家

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  海野宿の「梲(うだつ)」 のある家並み

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参考: 徳島県脇町の豪華な「梲(うだつ)」 のある街並み。阿波の藍玉の集散地として栄えた。友人「幸田さん」のお父さんは旧制脇町中学卒。在学中「野球の名づけ親「中馬庚」」が校長として赴任していたという。 四国ドライブで訪れた。

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  海野宿の風景

茅の輪潜り(ちのわくぐり)

氷川神社 茅の輪  7月1日早朝 撮影

茅の輪潜り(ちのわくぐり)

近くの氷川神社で「茅の輪潜り」があり、今年も縁起を担いで参加した。

茅の輪潜りの由来
6月と12月の晦日(みそか、6月30日と12月31日)に行われる除災行事である大祓(おおはらえ)に由来する。大祓は、犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事で、6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓を年越の祓(としこしのはらえ)という。

6月の大祓は夏越神事、六月祓とも呼んでいる。なお、「夏越」は「名越」とも標記する。また、「宮くぐり祭」や「輪くぐり祭」とも呼ばれる。

行事としての大祓
701年(大宝元年)の大宝律令によって正式な宮中の年中行事に定められた。衣服を毎日洗濯する習慣や水などのない時代、半年に一度、雑菌の繁殖し易い夏を前に新しい物に替える事で疫病を予防する意味があった。その後、応仁の乱の頃から行われなくなったが、江戸時代(1691年(元禄4年))に再開され、次第に広まった。


氷川神社 茅の輪

1871年(明治4年)の太政官布告にて明治新政府により「大宝律令」の「大祓」の旧儀の再興が命じられ全国の神社で行われるようになった。戦後には「夏越神事」「六月祓」の称も復活し、現在に至る。

夏越の祓では多くの神社で「茅の輪潜り」が行われる。これは、氏子が茅草で作られた輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うものである。

なお、茅の輪のカヤを引き抜いて持ち帰る人が後を絶たないが、本来は罪や穢れ・災厄をカヤに移すことで無病息災を得る風習であり、カヤを持ち帰ることは他人の災厄を自宅に持ち帰ることになるので(茅の輪のカヤを抜いて持ち帰るのは)避けるべきである。

出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』

>茅の輪を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓う。
このため、一人の通過時間が比較的長くなる。初詣など普通の参拝に比べ人出の割に長い待ち行列ができる。




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